2011-01-01から1年間の記事一覧

後白河院と寺社勢力(100)遁世僧(21)大勧進重源(18)発心

鴨長明の『発心集』に東大寺大仏開眼供養会に詣でて発心し念仏の功を積み極楽往生を遂げた男の話が載っている。因みにここでの「発心」とは菩提心を起こすことを意味する。 この男は尾張の裕福な国衙役人の23歳になる嫡男で、両親と共に文治元年(1185…

後白河院と寺社勢力(99)遁世僧(20)大勧進重源(17)陰謀と

大仏殿供養会の翌年の建久7年(1196)6月、重源は宋人石工・伊行末(いぎょうまつ)を起用して大仏両脇待像菩薩の彫像にとりかかり、四天王像及び中門の石獅子像(南大門脇に現存)も含めて12月10日には造り終えたたのだが、同年11月に何かと頼…

後白河院と寺社勢力(98)遁世僧(19)大勧進重源(16)頼朝の

重源が何とか大仏殿棟上に漕ぎ付けたのは源頼朝の奥州追討後であり、文治5年(1189)10月19日の上棟式は唐織で編まれた綱と、美布で編まれたそれぞれ12丈2尺(36m60cm)の二筋の網の、一方を後白河院他別当や高僧、他方を九条兼実以下の…

後白河院と寺社勢力(97)遁世僧(18)大勧進重源(15)西国と

文治3年(1187)10月、重源は周防国杣でこれまでに伐採した130余本の巨財のうちから16本を携えて九条兼実邸を訪問し、材木伐採並びに運搬人夫の不足や材木運搬用綱の原料となる麻苧の不足による杣から佐波川までの巨木の杣だし作業が困難に直面…

後白河院と寺社勢力(96)遁世僧(17)大勧進重源(14)武者の

文治3年(1187)3月1日付「重源申し上げ候」で始まる重源の朝廷への訴状は、人夫の食料として保管していた米86石を横領する、周防人を集めて城郭を構える、無断で私領の杣を作る、材木引き人夫集めに同意しないばかりか山野で狩猟をして重源の活動…

後白河院と寺社勢力(95)遁世僧(16)大勧進重源(13)イノベ

文治2年(1186)3月に知行を拝命した重源は4月18日を「造東大寺杣始」と定めて周防国における東大寺復興事業を開始した。既にこの時点では造東大寺長官藤原行隆との連署で朝廷に上奏していた周防国衙(※1)が請負っていた朝廷への租税や年貢等の貢…

後白河院と寺社勢力(94)遁世僧(15)大勧進重源(12)聖知行

文治2年(1186)3月、後白河院は周防国を東大寺造営料に充て、任期中の国司はそのままに周防国の知行を重源を委ねる院宣を下した。知行は地方行政・経済の運営者であり重源は事実上の国司として周防国を治める事になったのである。 緊急を要する大仏殿…

後白河院と寺社勢力(93)遁世僧(14)大勧進重源(11)武家政

東大寺大勧進の重源に期待された役割は、平重衡の焼討で灰燼に帰した大仏と大仏殿を聖武天皇によって創建された当時の姿に復元する事であった。 焼け落ちた大仏の再鋳造は、幸いにも博多港に停泊していた陳和卿率いる7人の宋人鋳物師の革新的な技巧により何…

後白河院と寺社勢力(92)遁世僧(13)大勧進重源(10)西行の

『年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山』 『風になびく冨士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな』 上記二首は余りにも有名な西行の歌であるが、文治2年(1186)重源の依頼を受けて伊勢から奥州の藤原氏と鎌倉の源頼朝を…

後白河院と寺社勢力(91)遁世僧(12)大勧進重源(9)結縁結集

東大寺大仏は王法仏法の象徴だけではなく庶民信仰の拠所でもあったことから、「一粒半銭、寸鉄尺木の施し」による再興を目指す東大寺勧進の成否は、ひとえに権力者から庶民はいうまでもなく、多様な宗派の仏教者をも含む人々の結縁(※)を一つにまとめる重源…

後白河院と寺社勢力(90)遁世僧(11)大勧進重源(8)利他の土

重源は大寺院に属する高僧ではなく質素な袈裟衣を纏って念珠(※)する「念仏聖」であり、仏教界では常にアウトサイダーであった。 (重源上人坐像 東大寺俊乗堂 国宝 『別冊太陽 東大寺』より ) 保安2年(1121)下級貴族紀季重(きのすえしげ)の子と…

後白河院と寺社勢力(89)遁世僧(10)大勧進重源(7)同行衆

大仏鋳造に本格的に着手した寿永元年(1182)2月、重源は「大仏の首を鋳る資材と費用は大略【知識物】による」と自らが先頭に立つ勧進活動によって大仏鋳造を賄う資材と資金をほぼ調達できる見通しを述べている。 しかるに、寿永2年(1183)4月に…

後白河院と寺社勢力(88)遁世僧(9)大勧進重源(6)法皇の大仏

元暦2年(1185)3月24日、数え年8歳の安徳天皇と三種の神器を擁した平氏は壇の浦の海に沈み、7月9日正午には大地震が畿内を襲った。 鴨長明は「そのさまは、よのつねならず。山は崩れて河を埋め、海は傾いて陸地を浸す。土は裂けて水が湧き出、巌…

後白河院と寺社勢力(87)遁世僧(8)大勧進重源(5)日・宋鋳物

東大寺大仏の本格的な修造は寿永2年(1183)2月11日の右手鋳造から始まり、4月19日から頭部鋳造、5月19日から面部鋳造、翌寿永3年(1184)正月から左手鋳造、6月の竣工へと進行するのだが、東大寺焼討から三ヵ月後の 養和元年(1181…

後白河院と寺社勢力(86)遁世僧(7)大勧進重源(4)螺髪鋳り

養和元年(1181)8月に『造東大寺知識詔書』発令と同時に造東大寺大勧進を拝命した重源は、朝廷が予め定めていた10月6日の「大仏補修始」の日程に添って大仏の螺髪(らほつ)鋳りから着手するために、10月9日には重源自ら先頭に立って洛中の貴賎…

後白河院と寺社勢力(85)遁世僧(6)大勧進重源(3)法皇の勧進

平清盛の南都攻めは焼討ちだけでは収まらなかった。翌年の養和元年(1181)1月4日に東大寺・興福寺の僧の公請(※)停止、荘園没収、僧綱以下の解任と苛烈を究めた。 鎮護国家の象徴たる東大寺と摂関家の氏寺・興福寺へのこのような所業は仏法を破戒す…

後白河院と寺社勢力(84)遁世僧(5)大勧進重源(2)61歳から

押し詰まった12月28日の平重衡による南都焼き討ちから年が明けた養和元年(1181)(※1)は、松の内もとれない1月14日の高倉上皇崩御から始まった。後白河院と平清盛との唯一の細い絆であった上皇は、病弱な上に父と義父との軋轢による緊張と福原…

後白河院と寺社勢力(83)遁世僧(4)大勧進重源(1)南都焼討

治承4年(1180)は源平争乱が一気に燃え上がった年だった。 前年の11月20日に平清盛が後白河院を鳥羽殿に幽閉して院政を停止させ、高倉天皇に譲位を迫って外孫安徳を即位させ、平氏政権を確立する為に高倉上皇に院政を開始させた事は、清盛にとって…

後白河院と寺社勢力(82)遁世僧(3)東大寺大勧進たちの横顔

旅の衣はすずかけの、露けき袖やしほるらん 時しも頃は如月の、きさらぎの十日の夜、 月の都を立ち出て これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の、 山かくす、霞ぞ春はゆかしける、 波路遥かに行く舟の、海津の浦に着きにけり。 歌舞伎には…

後白河院と寺社勢力(81)遁世僧(2)戒律復興に投じた僧たち

(1)解脱房貞慶(1155〜1213) 先回に述べた九条兼実が遁世を思い留まらせようとした貞慶(じょうけい)は、後白河天皇の側近として辣腕を発揮し平治の乱で獄門に晒された藤原信西の孫であった。藤原信西一族の優れた頭脳を引継いだ貞慶は、興福寺…

後白河院と寺社勢力(80)遁世僧(1)九条兼実の嘆息

建久3年(1192)2月8日、後白河院の崩御により関白としての手腕を存分に発揮できる時を得た九条兼実は、一人の興福寺の僧を自宅に招いて遁世を思い留まるように説得していた。 興福寺は藤原氏の氏寺であり、その藤原氏を代表する兼実にとって、当時学…

後白河院と寺社勢力(79)渡海僧(23)道元 9 只管打坐

道元の凄いところは偉大な師・如浄に対して「この国に来て和尚に出会うとは真に宿縁の慶幸である。然るに時は人を待たず、正師に遭遇しながらこのまま帰国すれば後悔が残るだけ。これからは和尚に質問したいと思ったときには時候や礼装・略装に関わらず随時…

後白河院と寺社勢力(78)渡海僧(22)道元 8 究極の師:如浄

当時の禅宗における入宋僧の目的が、正師を求め嗣書(※1)による印可(※2)を授けられる事にあるとしたら、命がけで大陸に渡るだけでも大変なのに、主流や本流に満足しない道元のような僧ににとっては、広大な国土を遍歴しまわらなければならず、まるで江…

後白河院と寺社勢力(77)渡海僧(21)道元 7 権威よりも無名

やっと7月に天童山の入山許可が降り勇んで足を踏み入れた道元の眼を射たのは、山の傾斜地に段状態に配置された伽藍の様で、それは平地に建つよりも遙かに迫力に満ち、これまでの日本では見られなかった光景であった。 当事の天童山の住持は、かつて宋禅の主…

後白河院と寺社勢力(76)渡海僧(20)道元 6 留学拠点・建仁

道元の伝記『建撕記』によれば、叡山の本覚思想に大きな疑問を抱いた道元に、三井寺の公胤は問題解決の糸口として入宋すること、そのためには宋の虚庵懐敞から臨済宗黄龍派を嗣法した栄西開祖の建仁寺の門を叩くよう進言したとされている。 ここでは道元が建…

後白河院と寺社勢力(75)渡海僧(19)道元 5 公胤の専修念仏

14歳で道元が身を投じた当時の叡山を支配していたのは「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという本覚思想であった。 もし本覚思想が唱える通り衆生に本来仏性が具わって…

後白河院と寺社勢力(74)渡海僧(18)道元 4 出家の根拠を求

道元は建保5年(1217)の夏に18歳で建仁寺の明全に入門し、その後明全と共に入宋するのだが、それ以前にも15歳で一度叡山を降りて三井寺の座主・公胤を訪ねている。 この頃の叡山は、清水寺の帰属を巡って興福寺と激しく争い、興福寺の衆徒が春日大…

後白河院と寺社勢力(73)渡海僧(17)道元 3 サラブレッドの

3歳で父・源通親と、8歳で母・藤原伊子と死別した道元(幼名:文殊)は9歳で『倶舎論』を読んだと伝えられてているが、出家を志した栄西も8歳で読んだとされる『倶舎論』は、4〜5世紀ごろ西インドの僧・世親(せしん)によって著された30巻からなる…

後白河院と寺社勢力(72)渡海僧(16)道元 2 乱世の母

道元は正治2年(1200)の1月に、内大臣源(土御門)通親を父に、前摂政関白藤原基房(松殿)の娘・伊子(いし)を母に京の松殿の別邸で生まれた。 当時の貴族社会では生まれた子供は母方の家で育てられるのが一般的であったから、祖父の元房は孫をゆく…

後白河院と寺社勢力(71)渡海僧(15)道元 1 典座大切

「仏家に、もとより六知事あり」で始まる道元の『典座教訓』は、禅寺(曹洞宗)運営管理に携る六つの役職の中から、食事・湯茶を管掌する典座(てんぞ)を取り上げ、その心構え、仕事に臨む姿勢といった精神的なものから、米の研ぎ方、仕事の手順、食材の扱…