独り善がり読書(33)2008年3月『喫茶養生記』と『定家明月記私抄』に見る療法の距離

 

【茶は養生の仙薬なり。延命の妙薬なり。山谷これを生ずれば其の地神霊なり。人倫これを採れば其の人長命なり】

 

 これは、入宋二度の後に日本臨済宗の開祖となった栄西が著した『喫茶養生記』の序の出だしであるが、

 

 

【人、一期を保つに命を守るを賢しとなす。其の一期を保つの源は養生にあり。其の養生の術を示すに、五臓を安んず可し、五臓の中心の臓を王とせむか。心の臓を建立するの方、茶を喫する是れ妙薬なり】と茶による養生へと続き、

 

【今世の医術は即ち、薬を含みて、心地を損ず、病と薬と乖(そむ)くが故なり。灸を帯して身命を夭す。脈と灸と戦ふが故なり】と、当時の医療を痛烈に批判している。

 

 ここでの、身命を夭すとは若死を意味するが、それでは、栄西がこれを著した建保2年(1214)当時の病気と治療とはどういうものであったか。

 

 そこで思い起こしたのは、堀田善衛が藤原定の実像を生き生きと浮び上がらせた『定家明月記私抄』で、これを通読して強く印象に残ったのは、「幽玄な歌聖の定家」よりも「病のデパート定家」のイメージが勝るほど、当時の病気と治療法があからさまに記述されており、しかも、栄西(1141~1215)と藤原定家(1162~1241)がほぼ同時代を生きた事も相俟って、少し長くなるが、堀田善衛著『定家明月記私抄』から、藤原定家の病状と対処法を年齢(数え年)を追って顕著な箇所を引用してみた。

 

 

○37歳

 「心身忽チ違乱シ、俄ニ病悩。終夜辛苦ス」この記述から咳の病、気管支炎かと思われる病気が始まり殆ど生涯続いている。

 

○38歳

 正月元旦に「今年病息災ヲ除ク為」に写経をしたのも効果がなく、4日には「風気不快」となり、この年は風病だけでなく、脚気、腰痛、手足苦痛、咳病などに襲われ、腰痛のときは「焼石」という石を温めたものを腰に当てたが効果がないばかりかさらに悪化し、車に乗せられて嵯峨の山荘で湯治をする。

 

 さらに7月には、「近日天下一同、病悩ト云々」と、子供三人が瘧(おこり:マラリア)を病み、8月には定家も発熱しはじめ「朝ヨリ垣山ノ湯ニ浴ス」と入浴したようだが「温気火ノ如シ。悶絶周章。終夜辛苦ス」と物凄く、

 

 つづいて「発(オコ)り心地、傚験アルノ由」と九条富小路地蔵堂に祈願に行くとさらに熱が出て、聖尊阿闍梨なる高僧から護身法なる密教の加持を受けて「今日無為落得シ了ンヌ。感慨極マリ無シ」と感激している。治療費と阿闍梨への謝礼と出費は甚大であった。因みに当時は39歳頃が初老期とされ、定家の同胞に死没者もでている。

 

○51歳

 1月は「足弱ク」なり「行歩」困難になりかけ、21日には雨の中を有馬へ湯治に出かけているが余り効果がなかったようだ。

 

 2月は、14日に脚気、20日には咳病、26日には「日来の病上がり、また、腹中大イニ苦痛シ、堪ヘ難シ、若シクハ是レ石痳(せきりん:腎臓あるいは膀胱結石)の病気カ。終日病悩ス」という状態であった。

 

 4月になると、「肩ノ病(神経痛かリュウマチの類」、「腹ノ雑熱」、9月には「腹ノ物、夜ヨリ殊ニ更ニ発(おこ)ル(発熱)の気有リ」で、医博士を招いて「大黄ヲ付ク」。

 

 大黄とは、瀉下剤(下剤か嘔吐剤)の一種で、是で熱が下がったので大黄はやめて鹿角(ロクカク)をつけている。鹿角は鹿の角を微粉末にして飲む当時の一般的な薬で喘息に効用があるとされていた。

 

 長くなるので、少し端折って、

 

○68歳

 3月に「雑熱猶減ゼズ」、4月には咳の病が続き、5月13日は「窮屈ノ余リ、持病発(おこ)ル」、5、6月の頃には左手が腫上がって痛むので灸や蛭で治療を施し、また、口熱(歯茎の腫れか?)が発し、6月16日、「午後、又蛭ヲ飼ウ(歯ニ少々、左手ニ卅許リ)。山月雲ヲ出デテ、暫ク晴ル」

 

 この場面で著者の堀田善衛氏は「蛭に血を吸わせる一件は、実に思うだに身の毛がよだつ。歯に蛭をつけるとなれば、生きた蛭を口の中にいれることになろう。なんという気味の悪い、いや、気持ちのわるい事を平気で(?)やらかしていたものであるか。しかも左手にも三十匹もの蛭を!嗚呼! それでいて、『山月雲ヲ出デ』と来るのである、嗚呼!」と怖気をふるっているが、これを書き写している私はギョギョギョ!!!

 

 まだまだ病状記述は続くのであるが、何ゆえ私が延々と定家の病状記述を引っ張り出したかといえば、これだけ多様な病気持ちでありながら、驚くべき事に彼は当時としては驚異的な80歳までの長寿を全うしたのである。因みに『喫茶養生記』を著した栄西も当時としては長命であったが、享年は定家より5年短い75歳であった。

 

 さらに定家の父・偉大な歌人で『千載和歌集』撰者の藤原俊成は、後鳥羽上皇から「九十の賀」を催され、その席上であの閨秀歌人建礼門院右京太夫が歌を刺繍した法衣の袈裟を上皇から賜る栄誉に浴して、翌年に91歳で没している。

 

 食料も粗末で医療も未熟なあの時代に、何故このように長寿を保てたのか、高齢化社会に生きる私にとって大いに探究したいテーマである。

 

引用文献:『栄西 喫茶養生記』 古田紹欽 講談社学術文庫

     『定家明月記私抄』 堀田善衛 新潮社