2011-01-01から1年間の記事一覧

後白河院と寺社勢力(70)渡海僧(14)栄西8 乱世の流儀6 二

京の公家政権と鎌倉の武家政権と二つの政権が成立した後、鎮西で退避していた栄西が最初に進出したのは鎌倉であった。 その栄西の鎌倉での沙汰が初めて見られるのは『吾妻鏡』正治元年(1199)9月26日の条で、幕府において不動尊供養の導師を勤めたと…

後白河院と寺社勢力(69)渡海僧(13)栄西7 乱世の流儀5 鎮

栄西の2度目の入宋が5年もの歳月を要したのは、平家が滅亡し京と鎌倉に二つの政権が成立したからには、「王法仏法」の一端を担って鎮護国家を祈念をする従来の仏教に代わる新たな仏教を興す必要があり、それには、インド・中国に渡って本来の仏教を摑み直…

後白河院と寺社勢力(68)渡海僧(12)栄西6 乱世の流儀4 袈

半年の滞在を終えて重源と共に仁安3年(1168)9月に宋から帰国した28歳の栄西は、叡山に登って宋から持ち帰った天台の新章疏(しんしょうそ)三十余部8巻を天台座主明雲に手渡したものの、翌年には山を下りて備前に戻り、35歳で筑前今津の誓願寺…

後白河院と寺社勢力(67)渡海僧(11)栄西5 乱世の流儀3 平

栄西の生まれた永治元年(1141)は平氏が全盛に向かって駆け上る時代であり、他方で、朝廷と共に「王法仏法」の一端を担う仏教界は、南都北嶺の宗派争い、山門(延暦寺)・寺門(園城寺)の天台宗間の争い、挙句は神輿や神木を掲げて大挙して朝廷に押し…

後白河院と寺社勢力(66)渡海僧(10)栄西4 乱世の流儀2 清

ここで平清盛と日宋貿易に触れたいが、遣唐使の停止以来諸外国との国交を断った朝廷が大宰府を唯一の窓口にして私貿易を管理していた事は前回述べた。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110131) 嘉応2年(1170)平清盛が福原の別荘に後白河院を招いて…

後白河院と寺社勢力(65)渡海僧(9)栄西3 乱世の流儀 1 宋

公家から武士へ、平家から源氏へと支配者が移り変わる激動の時代に、備中国・吉備津神社の一神官の出に過ぎなかった栄西が、二度の入宋を経て権僧正まで上り詰めて75歳で入滅した生涯は「乱世の処世」として見事という他はなく、そこで、一体何が栄西をここ…

後白河院と寺社勢力(64)渡海僧(8)栄西 2 三千年来の茶の薬

【茶は養生の仙薬なり。延命の妙薬なり】ではじまる『喫茶養生記』を著した栄西のの目に映った当時の日本の医療と養生の光景は、 【昔の人はあえて医療に頼らない方法で病気を治したのに、今の人は健康に対する配慮がいささか欠け、しかも、その医療といえば…

後白河院と寺社勢力(63)渡海僧(7)栄西 1 『喫茶養生記』と

【茶は養生の仙薬なり。延命の妙薬なり。山谷これを生ずれば其の地神霊なり。人倫これを採れば其の人長命なり】 これは、入宋二度の後に日本臨済宗の開祖となった栄西が著した『喫茶養生記』の序の出だしであるが、 【人、一期を保つに命を守るを賢しとなす…