後白河院と寺社勢力(81)遁世僧(2)戒律復興に投じた僧たち

(1)解脱房貞慶(1155〜1213)

 先回に述べた九条兼実が遁世を思い留まらせようとした貞慶(じょうけい)は、後白河天皇の側近として辣腕を発揮し平治の乱で獄門に晒された藤原信西の孫であった。藤原信西一族の優れた頭脳を引継いだ貞慶は、興福寺法相宗律宗を究めて頭角をあらわしたものの、「鎮護国家」の祈祷を理念とする南都北嶺の大寺院に蔓延する本覚思想や破戒を正当化する風潮に危機感を抱き、戒律復興を推し進める為に遁世し、興福寺を離れて笠置寺海住山寺を本拠に活動して解脱上人、笠置上人と呼ばれた。貞慶は法然の唱導する専修念仏に対して『興福寺奏状』をもって停止を訴えている。

(2)明恵房高弁(1173〜1232)

 明恵(みょうえ)は高雄山神護寺の文覚上人に師事して出家して華厳・密教を修め、その後紀州に戻って修行していたが、後鳥羽院の帰依を受けて神護寺の別所栂尾に高山寺を開創した。明恵は『華厳』の詳細な注釈を弟子の同行に講義するという学問への執念と、『華厳』教理を体験的に実証するという、学問と修行との統一に苦心し学問を深めるだけでなく実修方法としての華厳宗とその戒律復興に努めた。

 因みに栂尾高山寺といえば『鳥獣戯画絵巻』で有名だが、栄西禅師が宋から持ち帰った茶種を明恵上人が栽培したという日本最古の茶園でも知られている。

(3)我禅房俊芿(1166〜1227)
 
 俊芿(しゅんじょう)は叡山末寺、肥後の飯田山寺で天台の顕密の教学を修し、早くから戒律の復興に努めて南都北嶺で学び29歳で肥後に戻って正法寺を建てる。そして法然の『選択集』栄西の『興禅護国論』が書かれた翌年の正治元年(1199)に入宋して建暦元年(1211)に帰国した。

 俊芿は宋と同様の伽藍の建設を目論み、承久2年(1220)2月に『勧縁疏』『殿堂色目』等の趣意書を後鳥羽院に奏上し、嘉禄2年(1226)京都東山に建立した泉涌寺を台・律・禅・浄・密の道場とした。大興正法国師・月輪大師と呼ばれた。

 泉涌寺に原本が伝わる『勧縁疏』によれば、見事な筆跡で「もし寺を造るのに軌をうしなうならば、僧をたてることができない。僧を律しなければ、仏法をおこすことはできない。興隆三宝、正法久住は、正しく伽藍にある。その配置は模範による」と、僧の生活が律に従い正しく行われ、正法が何時までも行われるようになる根本には、寺院が正しく造られなくてはならないとの俊芿の考えを述べている。
 
 同じ入宋僧の栄西は戒律と禅を軸に台密の補強を目指したものの宋風の禅を日本に持ち込まなかった。対して俊芿は宋風の仏法修行を日本に持ち込み、台・律・禅・浄・密の併宗相承を新たな形で復活させることを志し、宋風の僧団生活の導入において、「只管打坐、身心脱落」という厳しい坐禅によって戒律復興に臨んだ道元より一歩先んじていた。


参考文献:『鎌倉仏教』田中久夫著 講談社学術文庫