後白河院と寺社勢力(76)渡海僧(20)道元 6 留学拠点・建仁

 道元の伝記『建撕記』によれば、叡山の本覚思想に大きな疑問を抱いた道元に、三井寺の公胤は問題解決の糸口として入宋すること、そのためには宋の虚庵懐敞から臨済宗黄龍派を嗣法した栄西開祖の建仁寺の門を叩くよう進言したとされている。

 ここでは道元が建保3年(1215)に75歳で入寂した栄西から直接指導を受けたか否かは脇に置いて、公胤の進言で入宋求法(にゅうそうぐほう)を志すようになった道元建仁寺の門を叩いたのは正解と言える。

 何故なら、鎌倉前期に興った新宗派の禅宗では、仏法は書かれた教えよりも師から弟子への人格的陶冶(とうや ※1)を通じてこそ伝えられるとする「教外別伝(きょうげべつでん)」を原則としており、そのためには釈迦から達磨を経て今に至る法脈を伝える師から直に学ばなければならなかった。
 
 であるからこそ数多の禅僧が命の危険をも顧みず中国渡航を熱望したのであり、その逆に鎌倉建長寺開祖の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)や無学祖元のような中国で高名な禅僧があえて辺境の日本に到来して禅宗をひろめたのである。


  

平成23年4月中旬の鎌倉建長寺

 また、国家機構の面では、当事の国家は外交感覚が欠如していた事もあって外交機能を担うべき専門組織が存在せず、せいぜい名ばかりの担当組織として冶部省に属する玄蕃寮(げんばりょう※2)が存在しただけであり、そのうえ、中国の科挙のような高級官吏任用制度を持たない日本の律令体制では、官吏を養成する教育機関も存在せず、寺院こそが中世における代表的な教育機関であったし、そもそも僧侶には全文が漢文で構成される経典の読書きが不可欠なことから、中国との外交行為に必須とされる漢文能力も国風文化を重んじて漢文から遠ざかっていた貴族よりも僧侶の方が遥かに抜きん出ていた。
 
 このような背景が、とりわけ禅宗における中国との人的交流を活発にし、その中でも日本禅宗の初祖とされる栄西が開いた建仁寺には、中国渡航経験者を始め、漢文能力や中国語能力に秀でた豊かな人材が集まり、最新の中国情報や中国人とのコミュニケーション・ノウハウが蓄積されてていたから、道元のような入宋を志す者にとっては打ってつけの場所であったといえる。

 蛇足になるが、入宋間もない道元が出会った老典座との交流(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110329)や、

 明全と道元が天童山で遭遇した出来事、これは、戒律の年次を無視して自国の僧を優遇して日本など外国僧を末席に置いた南宋ののやり方に対して、道元が外国僧に対する不当な扱いは仏教の平等に反すると天童山当局や皇帝の寧宗(ねいそう)に訴え、寧宗の勅宣で外国僧に対する待遇を改善させた成果は、まさに建仁寺で習得した語学力・コミュニケーション力の賜物であったと言える。

(※1)陶冶(とうや):人材を薫陶育成する事。

(※2)玄蕃寮(げんばりょう):律令制で冶部省に属し、仏寺や僧尼の名籍、外交使節の接待・送迎をつかさどった役所。

参考資料:『中世寺院の姿とくらし』国立歴史民族博物館編