後白河院と寺社勢力(99)遁世僧(20)大勧進重源(17)陰謀と

 大仏殿供養会の翌年の建久7年(1196)6月、重源は宋人石工・伊行末(いぎょうまつ)を起用して大仏両脇待像菩薩の彫像にとりかかり、四天王像及び中門の石獅子像(南大門脇に現存)も含めて12月10日には造り終えたたのだが、同年11月に何かと頼りにしてきた九条兼実が関白・氏の長者を罷免された事を知らされる。

 後白河院崩御後の朝廷は、後鳥羽天皇の皇子誕生をめぐって養女在子(ざいし)を入内させた内大臣源通親丹後局連合の院近臣グループと、娘任子(にんし)を入内さた九条兼実がが熾烈な争いを展開していたのだが、そこに源頼朝が通親・丹後局連合に豪華な贈物を献上して娘・大姫(おおひめ)の入内工作をしたことから複雑な様相を呈していた。

 その結果は、在子が皇子を、任子が皇女を出産した事で後白河院近臣グループが強力な権力闘争を展開して、後白河院の寵臣で前関白の近衛基通を関白・氏の長者に据え、兼実はもとより娘の任子、弟の天台座主慈円ともども一門を追放したのであった。


        

(関白・氏の長者を剥奪された九条兼実 『図版公家列影図』より)      

 ではこの事態に兼実の盟友・源頼朝はどう対処したか。一般に流布している説は、後鳥羽後宮のへの娘の入内を巡って頼朝と兼実はライバルであったから二人の関係は冷ややかになっていたというものであるが、私は、頼朝は長子・頼家を後継者に仕立て上げる為に必死でそれどころではなかったと見ている。

 源頼朝は頼家を後継として東国の御家人に周知させようと、建久4年(1193)には下野(しもつけ)、上野、駿河の富士野などで積極的に巻狩を催しており、5月の富士野の巻狩では、頼家が鹿を射止めた事で過剰な喜び方をしているが、この巻狩で曽我兄弟が父の仇・工藤祐経を討った話は歌舞伎でよく知られている。

 さらに同年の8月、頼朝は義経と共に平氏を壇の浦に沈めた功労者でもある弟・範頼(のりより)に謀反の疑いをかけて伊豆に配流して殺し、その年の暮れにも源氏一門の有力者であった安田義定の所領を没収した上で翌年8月に殺している。

 後々の家督争いの芽を根絶するためとはいえ頼朝の義経への仕打ちと併せて考えると、武器を持たない公家は相手を蹴落とす為に陰陰滅滅と陰謀や呪詛を用いるのに対し、殺傷が生業の武士は相手を追い落とす為に刀を用いてけりをつけるのである。

 そんな鎌倉の抗争を横目に建久9年(1198)1月、後鳥羽天皇はさっさと譲位して院政を開始するのだが、それに伴い土御門天皇の外祖父となった源通親が院別当の座を手中にして朝廷は新しいリーダーの時代に入ってゆく。

 方や娘・大姫が入内を実現する前に夭逝した事で落胆した頼朝は、後鳥羽上皇院政を開始した年の10月、相模川橋供養の帰途で落馬し、後継者としての頼家の行く末を見届けぬまま翌年1月に53歳の生涯を閉じるのであるが、彼の死後も鎌倉は頼家・実朝だけでなく頼家の幼な子・一幡や外戚比企能員、果ては頼朝の弟・阿野全成の暗殺に至るまで、血で血を洗う抗争を展開してゆくのである。

 乱れに乱れる二都を憂慮しながらも重源は、正治元年(1199)に東大寺南大門を再建し、建仁元年(1201)12月27日には仏師快慶が彫像した僧形八幡神像の開眼供養を行い、建仁3年(1203)10月には運慶・快慶・湛慶・定覚を起用して南大門仁王像の阿形(8.36メートル)・吽形(8・38メートル)二体の金剛力士像をわずか69日間で造らせるという快挙を成し遂げ(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101204)、11月30日には後鳥羽上皇行幸と諸僧千人による盛大な東大寺総供養会に漕ぎつけている。


東大寺南大門 「図解人物海の日本史2日宋貿易元寇毎日新聞社より)

 養和元年(1181)の後白河院の『知識の詔』に基づく東大寺再興事業の総勧進職を重源が拝命してから、建仁3年(1203)11月の東大寺総供養会に至る約四半世紀の歩みを眺めて感じることは「権力の移ろいやすさ」である。

 勧進職を拝命した時の重源は61歳、その彼を任命した後白河院は54歳、祖父である後白河院に同調して「朕も」と手を挙げた安徳天皇に至っては4歳、そして頼朝は14歳から20年に亘る伊豆での流人生活を脱したばかりの35歳であり、その4人の中で総供養会まで生き残ったのは83歳の重源だけであった(全て数え年)。

 常人であれば、言いだしっぺで強力なスポンサーであった後白河院及び幕府の威信をかけて次の強力なスポンサーとして登場した頼朝が没した時点で、「私降ります」と総勧進職を返上しても不思議ではなかったのに、二人の没後、権力闘争に明け暮れる二都政権下で、何故、重源は老骨に鞭打って最後までやりぬいたのか。その原動力は何であったのか。そして、そんな重源を支えたのはどんな人たちだったのか。

それを知るためにもう少し重源に関ってゆきたい。

参考文献は以下の通り。

『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館

『頼朝の天下草創』 山本幸司著 講談社学術文庫

『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ