後白河院と寺社勢力(95)遁世僧(16)大勧進重源(13)イノベ

  文治2年(1186)3月に知行を拝命した重源は4月18日を「造東大寺杣始」と定めて周防国における東大寺復興事業を開始した。既にこの時点では造東大寺長官藤原行隆との連署で朝廷に上奏していた周防国衙(※1)が請負っていた朝廷への租税や年貢等の貢納物免除を認める宣旨も得ていた。

 ここでは、知行として周防国東大寺造営料として運営するだけでなく、企業家として次々に新機軸を打出して難問を乗切った重源のイノベーターとしての側面に焦点を当ててみたい。

 自らの目と足を使って深い谷や険しい峰、巌や荊棘(※2)に満ちた杣の実地検分を終えた重源は、杣人に対して良材を見つけたものには一本に付き米一石を与えるという懸賞を出し彼らの奮起を促している。

 米一石は150キログラム、妻子を売るか、浮浪者に身を落とすほど困窮していた杣人にとって、厳寒あるいは炎天をもものともせず、足場の悪い山中を血眼になって良材を探し回るだけの価値は大いにあった。

 しかし、見かけは良材でも空洞があったり枝節が多すぎたりで、大仏殿の適材としての基準に適うのは数百本のうちの10〜20本という厳しさであったが、こうして選別された長さ7丈(※3)から10丈、口径5尺4、5寸の巨木を深い谷底から引き揚げるために、二基の轆轤(※4)を造り、巨木の両端につけた大縄でこれを引っ張る方法を考案して、従来の方法では1千人と見積もっていた人夫を70人で済ませたという。


東大寺上棟で轆轤を使って易々と大木を引揚げる大工『法然上人絵伝 中』より)

 また、材木積出港の佐波川から摂津に至る水路による運搬では、特別に設計した筏を造らせ浅瀬で柱を浮かせて巨木を運んだり、浅すぎて巨木が浮かばない場合は佐波川から瀬戸内海まで118箇所に石組の堰を作り、そこに水を溜めて巨木を浮かせ一気に下流に流し込む仕掛けなど、重源は当時としては革新的な方法を採用している。

 人的資源の面では、田数に応じて人数を割り当てる国衙の人夫役方式では田数の少ないところからは人夫を徴集出来ず大仏殿建設が大幅に遅延する事から、、周防国内の在家を調査して在家別に5人あるいは10人という形で人夫を徴集する、田数の少ないところからも人夫役の徴集が可能になる方式に切替えているが、これは、家を一軒一軒廻って勧進活動を行ってきた重源の経験から生まれたものである。

 福利厚生の面でも、重源は現在のサウナに該当する石風呂を幾つか造っており、任地を私腹を肥やす源泉と見て人夫を最大限こき使う国司や知行とは異なって、厳寒、炎天下に過酷な労働で疲労困憊した人夫たちの身心の回復のために『湯施行』という勧進活動の一つを採用していた。

(※1)国衙(こくが):律令制で朝廷から諸国に赴任させた地方官である国司の役所。

(※2)荊棘(けいきょく):いばら、または、いばらなどの生えて荒れ果てた土地。

(※3)丈(じょう):長さの単位、尺の10倍。約3メートル。

(※4)轆轤(ろくろ):重い物を引いたり上げたりする装置。移動させようとする物体にかけた縄を軸棒にまといつけ軸を回転して縄を巻くことによって引っ張る。

参考文献:『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館

    『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ