2009-03-01から1ヶ月間の記事一覧

後白河院と平家の女(2)丹後局(下の1)生母が若狭局なら平清盛は

これほどの存在感を持つ丹後局については後白河院の寵臣で今様の弟子でもあった平業房の美貌の妻という以外は余り知られていない。精々、九条兼実の日記「玉葉」に「法皇無双の寵女丹後、卑賤者也」との記述が見られるくらいで、これは、後白河院から所望さ…

後白河院と平家の女(2)丹後局(中の3)頼朝を翻弄し兼実を失脚さ

武家政権では棟梁となった源頼朝も、中央政治では彼が「日本国第一の大天狗」と評する後白河院の前に歯が立たず、同盟者九条兼実と共に「何事も法皇御万歳後」と院の死を待つ他なかったが、そんな二人にとって、66歳の大往生とは言え建久3年(1192)…

後白河院と平家の女(2)丹後局(中の2)摂関家を分立させる

壇ノ浦における平家の滅亡により、朝廷への発言力を増した源頼朝の推挙を得て、これまで一貫して親鎌倉の姿勢を貫いた藤原(九条)兼実は、藤原(近衛)基通に代わって文治2年(1186)3月に念願の摂政・藤原氏の長者となる。 ところがこれを不服とする…

後白河院と平家の女(2)丹後局(中の1)後鳥羽天皇践祚に介入

寿永二年(1183)平家は三種の神器と共に安徳天皇を具して西走した。平宗盛から同行を仄めかされていた後白河院は夜陰に乗じて辛くも延暦寺に逃げ切ったが、朝廷での天皇不在を苦慮して重鎮を招致して対応を協議した。 その結果、故高倉上皇の三宮・守貞…

後白河院と平家の女(2)丹後局((上)晩年の寵姫は5人の子持ち後家

安元元年(1176)年の平家出身の皇妃・建春門院の崩御は、これまで封じられてきた平家打倒の動きを一気に加速させる事になるが、その先鞭をつけたのは他ならぬ反平家の空気を読み取った後白河院であった。自ら謀議に加わった鹿ケ谷事件は密告によって未…

後白河院と平家の女(1)建春門院〜院の最愛の女性にして平家栄達の

後白河院の最愛の女性とされる建春門院について後室文化に造詣の深い故角田文衛氏(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20080516)は、「35年の短い生涯であったが、歴代のあらゆる后妃のうちで、これほど幸運に恵まれた方はいなかったと思う」と述べている(『…

後白河院と美福門院(その2)仏と仏が決めた天皇の退位

保元の乱は、後白河天皇の兄である崇徳上皇の配流、平家方は平清盛の手による叔父忠正とその息子3人の斬首、源氏方は源義朝が父為義と弟達を処刑するという残忍な結果で京中の人々を震撼させたのであるが、このこと自体が、実に3百年ぶりの死刑の復活に敢…