重源が何とか大仏殿棟上に漕ぎ付けたのは源頼朝の奥州追討後であり、文治5年(1189)10月19日の上棟式は唐織で編まれた綱と、美布で編まれたそれぞれ12丈2尺(36m60cm)の二筋の網の、一方を後白河院他別当や高僧、他方を九条兼実以下の摂政や文武百官の官人が掴んで拝するというシンプルなものであったが、この日頼朝は臨席していない。
その源頼朝は「追討宣旨」を得ないまま「私戦」への懸念と共に7月19日に鎌倉を出発したものの、藤原泰衡の首を携えて10月24日に鎌倉に戻って7月7日付の「奥州追討宣旨」が9月初旬に到着していたことを知る。
宣旨によって奥州征伐が公に承認された頼朝は、東国のみならず西国も包括した武家政権の棟梁として建久2年(1191)には畿内西海の地頭を指揮して翌年中に48本の大仏殿柱用の材木引きを成遂げるよう佐々木高綱に命じており、こうして大仏殿建立は槌音高く進められてゆくことになる。
(東大寺大仏殿工事現場を見物する人々 『法然上人絵伝 中』より)
さらに、後白河院崩御(建久3年)により念願の征夷大将軍を手中にした頼朝は、建久5年3月に大仏光背(下図)用の砂金330両を奉加し、翌年6月には造営が遅れている大仏脇待菩薩・同四天王像・戒壇院を分担していたそれぉれの御家人を厳しく叱責して精勤を命じているが、これは東大寺復興がもはや重源への支援といった性格ではなく、新しい統治者が誰かを諸国に隈なく周知させる為の頼朝自身の重要な事業と化した事を示している。
そうして迎えた建久6年(1195)3月12日の大仏殿供養会には、千人を超える僧の読経が響き渡る中を後鳥羽天皇、関白兼実以下の公家政権の担い手が全て臨席したものの後白河院の姿は既になく、代わって際立った存在感を発揮したのは鎌倉中が空になるのではないかと思われるほどの御家人を率いて臨んだ源頼朝であった。
(大仏殿供養会に臨席した頼朝と従者『東大寺大仏縁起・二月堂縁起』より )
煌びやかな軍事パレードで衆目を釘付けにしながら東大寺南院に到着した頼朝は、直ちに馬一千疋(※)、米一万石、黄金一千両、上絹一千疋を奉加して物量面でも圧倒的な存在感を発揮した。
大仏殿供養会の当日は、まるで10年前の大仏開眼供養会を再現するかのように朝から大雨がふり、おまけに地震まで起こったことから、門内に殺到した見物の衆徒と警護の武士の間にトラブルが生じたが、頼朝の従者の道理を弁えた説得により群集の興奮を鎮め秩序ある供養会を取り戻したと『吾妻鏡』は伝えている。
ところで、供養会に臨席した九条兼実の実弟で天台座主(延暦寺のトップ)の慈円が『愚管抄』に記したのが盛大な儀式の模様ではなく、大雨と大風にぬれ叩かれながらも微動だにせず黙々と任務を果たす関東武士についてだけであったというのは興味深いことである。
(※)疋(ひき):獣・鳥・魚・虫などを数える語。布帛2反を単位として数える語。
参考文献: 『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館
『頼朝の天下草創』 山本幸司著 講談社学術文庫