後白河院と寺社勢力(97)遁世僧(18)大勧進重源(15)西国と

  文治3年(1187)10月、重源は周防国杣でこれまでに伐採した130余本の巨財のうちから16本を携えて九条兼実邸を訪問し、材木伐採並びに運搬人夫の不足や材木運搬用綱の原料となる麻苧の不足による杣から佐波川までの巨木の杣だし作業が困難に直面していることを訴えた。

 周防国山中での困難な状況は遠く離れた朝廷にはなかなか伝わらないばかりか、鎌倉幕府成立過程における地頭の大仏復興事業への妨害や、周防国だけでも急速に増える荘園など新たな問題も生じて、さらなる朝廷の助力を仰ぐ為のデモンストレーションとしてはなかなか効果的な方法に思われた。

しかるに重源が文治5年(1189)8月3日に九条兼実邸を訪れたときには、

(1)周防国内の荘園に課した材木引人夫の徴集が間に合わないだけでなく非協力的な荘園もある、
(2)周防国東大寺造営料に充てられた後に荘園が5、6箇所増えている、
(3)諸国に課した材木引人夫や麻苧が全く納められていない、

 の3点を理由に、これでは大仏殿建築は請負えないから造寺事業は辞退して、今後は造仏事業だけ引き受けたいと述べて兼実を慌てさせている。

 一体何故このような事態が生じたのか、当方が独自に作成した「文治3年(1187)〜文治5年(1189)頃の支配構造」(下図)をもとに私なりの考えを述べると、


   

 当時は源頼朝鎌倉幕府を樹立したとはいえ西国を完全掌握するには至らず、西国の御家人(大名・地頭)の管理は依然として朝廷に委ねており、更にはほぼ完全に制圧したはずの東国においても、逃亡中の義経奥州藤原氏の懐に飛び込んでいるにもかかわらず征夷大将軍の地位を得ない頼朝としては、後白河院の許可を得ず奥州攻めも出来ない状況にあった。

 義経奥州藤原氏の結合を危惧する源頼朝後白河院に度々奥州追討宣旨を要請するものの、むしろ有力な頼朝対抗勢力として義経藤原秀衡連合を望む後白河院は、新たな戦乱は東大寺復興事業の妨げになると頼朝に同調しなかったのである。

 さらには、律令国家の崩壊が日に日に明らかになるにしたがって、権門の庇護を求めて在地領主が院宮や寺社に土地を寄進する動きが加速して、国衙役人や地頭が介入できない不輸不入権(※1)を持つ荘園が増大した事も大仏殿建築が遅々として進まない要因となっていった。

 このように国家が分裂状態にある中で、重源が「東大寺の材木が10本失われたから何とか通達で諸国に材木引きを課して埋め合わせを願いたい」などと上奏すると、朝廷は「諸国の国司に課すと却って材木引は難しくなるので、御家人(※2)に課せば彼らは結縁を感じて大いに精勤するであろう」との院宣鎌倉幕府に下し、それを受けた源頼朝は「御家人には善縁を信じる者が少ないので、躊躇う気持ちがあるとうまく行かないので荘園に課すべきである」との返書を送り、それを受けた朝廷は「諸国の大名(御家人)に課す事は重源の要望でそう決めたことである」との返書を鎌倉に送るといった顛末になる。

 つまり、大仏殿用の材木引一つを取上げても、朝廷は「大名に命じよ」と主張し、幕府は「諸国の国司や荘園に命じるべき」と主張して、互いの押付け合いが展開されていたのだが、西国を完全掌握していない源頼朝にとって、大名に課した場合に材木引人夫を現地調達する際、国司荘園領主から訴訟を起こされることを最も恐れていたのであった。

 しかし、東国に関しては別問題で、「弟子を派遣して勧進するなら御家人にも助成の心が生じるであろうから、しかるべき聖人を送るよう」重源に進言し、その際には幕府が全面的に協力することは厭わない意志を伝えている。


(※1)不輸不入権(ふゆふにゅうけん):荘園に国家権力を介入させない権利。開墾、買得、寄進によって成立した荘園は、9世紀後半から次第に不輸祖の権利を獲得し、やがて11世紀には国家権力の介入を全面的に排除する荘園が一般化した。

(※2)御家人(ごけにん):源頼朝に始まる鎌倉幕府の将軍との間に主従関係を結んだ武士。地頭には御家人が補任された。


参考文献は以下の通り。

『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館

『頼朝の天下草創』 山本幸司著 講談社学術文庫

『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ