文治2年(1186)3月、後白河院は周防国を東大寺造営料に充て、任期中の国司はそのままに周防国の知行を重源を委ねる院宣を下した。知行は地方行政・経済の運営者であり重源は事実上の国司として周防国を治める事になったのである。
緊急を要する大仏殿再築やそれに続くいくつかの木彫仏像の製作には良質用材の確保が必須であることから、良材の産地として知られた周防国が東大寺造営料に充てられるのは妥当としても、本来、知行は貴族か官寺の高僧が任命されることを考えれば、勧進聖が知行を兼帯することは極めて異例であった。
早速、陳和卿や番匠など十数人を率いて周防国に初めて足を踏み入れた重源が眼にしたのは、源平内乱により荒れ果てた国土、困窮の極みで妻子を売買する者、浮浪者に身を落とす者、餓死する者、借金や徴税に耐えかねて逃亡する者たちの姿であった。
文治2年4月10日の『東大寺造立供養記』は重源上人一行が着岸した時周防国中の餓人雲集がしたと描写し、そこで重源は船に乗せていた食料を彼らに施行し、さらには農業用の種を配給して差し当たっての生活の手段とさせている。
周防国知行に重源を任命した後白河院の直接の意図は、東大寺大仏殿再築のための巨木の伐採から瀬戸内海を経て摂津・大和に至る運搬の労働力の確保であり、かつそれを通して困窮した周防国の人々への生活の手段を与え、つまり雇用創出による周防国の活性化であった。
しかし、真の狙いは、鎮護国家の象徴とも言え東大寺の再興を、「仏道への結縁」という勧進活動で調達した民間資金を活用して、日本国全体の経済活動を活発にしそれを通して人心の浮揚を図ることにあったのではないか。
そのためにこそ、後白河院は、入唐三度による大陸の先端技術を熟知し、かつ数々の勧進活動による土木事業の完成に卓越した手腕を発揮した重源に東大寺大勧進と周防国知行を兼帯させたのである。
このことこそ、まさに、側近中の側近・藤原信西から「暗主」「暗愚」と酷評されながらも、「制法にとらわれず事を押し通す」を長所として挙げられた後白河院の面目躍如であった。
「制法にとらわれない」つまりルール無視、横車押しだが、国家と地方の財政が破綻し、武士の台頭で朝廷と公家政治が危機に瀕するという日本史上稀に見る激動期においては、何も決められず右往左往するだけの高級官僚一人ひとりの意見を尊重していては何も進まなかったのである。