後白河院と寺社勢力(92)遁世僧(13)大勧進重源(10)西行の

 
『年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山』
『風になびく冨士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな』

 上記二首は余りにも有名な西行の歌であるが、文治2年(1186)重源の依頼を受けて伊勢から奥州の藤原氏と鎌倉の源頼朝を訪う砂金勧進の途次に詠んだもので、時に西行は69歳であった。

 前年の東大寺大仏開眼供養は盛大であったが(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110909)、
供養された大仏様は鋳造されたままの「半作の供養、中間の開眼」と一部の公卿から揶揄される有様であったから、重源にとっては鍍金の為の砂金調達は焦眉の急であった。

 とは言え巨大な大仏を覆う鍍金には大量の砂金を必要とするため、畢竟砂金の産地を領有する奥州藤原氏を頼みとする他はなく、その事について元暦元年(1184)6月23日に九条兼実邸を訪問した造東大寺長官の藤原行隆は「源頼朝から千両、奥州の藤原秀衡からも5千両の砂金の奉加の約束が出来ている」と述べている。

 しかるに源平争乱の激化もあってなかなか約束が果たされないことから、思い余った重源が、伊勢大神宮に60名の僧侶を率いて大般若経の転読供養で大仏殿造営の成功を祈願をしたその足で、伊勢の二見浦の山中に草庵を編む西行を訪ねて奥州の藤原氏と鎌倉の源頼朝を訪う砂金勧進を依頼したのである。

 この二人は浅からぬ縁で繋がっており、重源が承安元年(1171)頃に高野山の専修往生院に新別所を構えた時、西行は既に20年近くこの地の草庵で起居しており、治承4年(1180)に源平争乱を避けて伊勢の二見浦に移住するまで共に高野山の空気を吸っていたのであった。

 さらには、重源ほど厳しい姿勢で仏道修行に励んだわけではないが、真言密教から修験場、浄土教に至る西行の振幅の広い信仰心は重源のそれと重なり、信仰心においても二人には共振・共鳴するものが少なくなかったのである。

 しかし、重源が奥州への砂金勧進を依頼した決定的な要因は、西行奥州藤原氏と同族であったからと思われる。

 因みに俗名が佐藤義清(のりきよ)の西行の父康清の系統は藤原氏北家から発しているが、平将門の乱を平定した俵藤太(藤原秀郷)から枝分かれして、一方の子の千晴の子孫は平泉を本拠として代々の奥州藤原氏に連なり、もう一方の子の千常の系統は西行に連なっていたのである。


再び『新古今和歌集』にも採取された西行の歌にたちかえると

『年たけてまた越ゆべしと思ひきやいのちなりけり小夜の中山』
『風になびく冨士のけぶりの空に消えて行方も知らぬわが思ひかな』

 齢69歳にしてよく小夜の中山を超える事が出来たものだ、これも命あってのことだな、という思いと、
 69歳までも生きながらえてきたが、これからの自分は冨士の煙のように行方が知れないだろう、という感慨がしみじみ伝わってくる。

 遥々の陸奥までの砂金勧進を敢えて依頼した66歳の重源、老骨に鞭打ってでもと引き受けた69歳の西行、共に老境の二人の遁世聖が、東大寺復興という「利他の大義」で見せた鮮やかな呼吸であった。

 ところで西行といえば桜、桜といえば西行世阿弥西行の夢に現れる桜の老木の精をシテにした能「西行桜」を残している。


(上図は能「西行桜」『別冊太陽WINTER'78』より)


参考文献:  『西行』 高橋英夫著 岩波新書

  『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ