後白河院と寺社勢力(85)遁世僧(6)大勧進重源(3)法皇の勧進

 平清盛の南都攻めは焼討ちだけでは収まらなかった。翌年の養和元年(1181)1月4日に東大寺興福寺の僧の公請(※)停止、荘園没収、僧綱以下の解任と苛烈を究めた。

 鎮護国家の象徴たる東大寺摂関家の氏寺・興福寺へのこのような所業は仏法を破戒するだけでなく「王法仏法」で成り立つ国家をも滅亡させる事になり、公家(こうか:朝廷、おおやけ)はもとより、内乱・飢饉・天変のさなかを日々死と隣り合わせに生き、ひたすら仏に「現世安穏・後世菩提」を祈る他ない庶民にとっても重大な危機であった。つまり清盛は南都だけでなく庶民をも敵に廻したのである。

 そのような中で、閏2月4日に平清盛が病死し、院政を再開した後白河院は直ちに東大寺興福寺僧の公請回復と僧綱以下の復任、寺領返却に着手すると共に、3月18日には近臣の藤原行隆を鋳物師十余人と共に勅使とし南都に下向させ、東大寺の損傷実態を調べさせ、被害損傷の大きさだけでなく、大仏の修復には国内鋳物師の技術では不可能である等の報告を受けている。

 従来東大寺の修理は朝廷に置かれた造東大寺司と東大寺側の別当以下の政所との連携で進められてきた。

 しかるに、被害の甚大さはもとより、飢饉、大火などの天変が相次ぐ中、源平争乱による兵糧米・賦役のの取り立ても厳しい事を踏まえ、庶民へのこれ以上の課税は不可能と判断した後白河院は、東大寺修復には「衆庶之施物」つまり、「東大寺復興に寄進をすれば結縁によって現世安穏・後世菩提が叶えられる」と呼びかけて、幅広い人々から「一粒半銭」「寸鉄尺木」の寄進(勧進)を募るしかないと構想を立て、6月26日に造東大寺長官に藤原行隆を任命すると同時に【法皇が大仏修復と伽藍復旧の大願を立て広く知識の勧進を呼びかける】を旨とした「造東大寺知識詔書」を草案させている。

 太政官からこの詔書の奏上を受けた安徳天皇は、法皇の志に甚く共感して【勧進の願主は後白河法皇勧進の主体は安徳天皇】を旨として天皇名で知識詔書を発令した。

 それにしても、勧進の願主が後白河法皇というのはわかるが、勧進の主体者が安徳天皇というのでは勧進を呼びかけられる庶民には余りにも畏れ多い。

 後白河法皇は嘉応元年(1169)に43歳で園城寺長吏・覚忠によって出家して行真の法名を持ち、さらに東大寺延暦寺でも授戒して、今や、伝法潅頂によって秘法を授けられた僧のみに許される「阿闍梨行真(あじゃりぎょうしん)」の法名を持つ高僧でもあるから、「王法仏法」の危機を立て直すに最適な人物といえる。

 そこで、安徳天皇に代わって浄土僧として広く知られ、かつ造寺を始めとする土木事業で民間の勧進としての実績も豊富で、さらには入宋三度により建築・土木・鋳造において宋の最先端の技術に造詣の深い重源が勧進主体を請負う造東大寺大勧進に起用されたのである。

 重源がかねがね胸に描いていた東大寺復興の思いと知識詔書の主旨は大きく一致しており、大勧進を拝命した重源は直ちに一輪車を6両作らせて五畿七道に配し、各々に「造東大寺知識詔書」と自ら作成した「敬白文(勧進状)」を掲げさせて勧進活動を精力的に展開していった。


(※)公請(くじょう):朝廷から経典の講義・論議に召される事。公請に招かれることが僧侶の出世の必須条件であった。
 
      
参考資料は『院政とその時代』 田中文英著 思文閣出版