2009-02-01から1ヶ月間の記事一覧
美福門院腹の近衛天皇の即位で皇位が遠のいたことを悟り、今様に寝食を忘れて打ち込んでいた雅仁親王を天皇の座に引き摺り出したのは他ならぬその美福門院であった。美福門院の名は藤原得子(ふじわらなりこ)。父は伊予や播磨などの富裕な受領や太宰の大弐…
後白河院と遊女のシリーズを終えるに当って、「梁塵秘抄」から今様を10首選んでみました(数字は通し番号)。365 わが子は二十(はたち)になりぬらん 博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ 国々の博党(ばくたう)に、さすがに子なれば憎かなし 負…
乙前を今様の師に迎えて11年を経た後白河院は、上皇として二条・六条天皇に次ぐ皇位を平家出身の最愛の女性建春門院との間に生まれた高倉天皇を即位させ、政敵平清盛とは緊張感を孕みながらも表面上は穏やかに治天の君としての権力基盤を固める傍ら、自ら…
当時の今様は女芸人四三の流れが正調とされ、後白河院の師、乙前も四三の直属の弟子目井から手ほどきを受けたことは前回に述べた。 (Mixi http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1074034685&owner_id=87871 隠居Journal http://d.hatena.ne.jp/K-sako/) 乙前の…
何時の世もやっかみはあるもので、一度は後白河院の前で今様を披露した乙前と同じ美濃の青墓出身の遊女さはのあこ丸(梁塵秘抄を元に私が作った別紙参照)が、後白河院に召抱えられた乙前を妬んでか、「乙前ねえさんはすごく上手だけど、目井の弟子といって…
近衛天皇の崩御から、自らの天皇即位が兄弟・親子が血で血を洗う内乱(保元の乱)を引き起こした経緯を、「そののち、鳥羽院かくれさせたまいて、物騒がしき事ありて、あさましき事いでて、今様沙汰も無かりしに」と、淡々と記述した後白河院が、今様の名手…
20歳で母の待賢門院を失った悲痛な心境を、 「久安元年8月22日、待賢門院亡せさせたまひにしかば、火をうち消ちて闇の夜に対ひたる心地して、昏れ塞がりてありしほどに、50日過ぎしほどに」と記した雅仁親王は、兄の崇徳上皇から、同居せよ、との仰せ…