【茶は養生の仙薬なり。延命の妙薬なり】ではじまる『喫茶養生記』を著した栄西の目に映った当時の日本の医療と養生の光景は、
【昔の人はあえて医療に頼らない方法で病気を治したのに、今の人は健康に対する配慮がいささか欠け、しかも、その医療といえば、薬を飲む事で却って体調を悪くしており、それは病気と薬が合っていないためであり、灸をして失わなくてもよい命を失うような事があるのは、脈と灸がせめぎ合っているからである】
と、日本人の養生観の欠如と医療の後進性においてまことに危機的な状況であったと記しているが、これは何も1214年(建保二年)当時のだけの事ではなく、800年後の日本にも当てはまる状況ではないか。
28歳の1168年に半年、そして、47歳の1187年から4年間と、二度入宋した栄西は、
- 「彼を失って二千年余り、一体誰が末世のわれらの血脈を診てくれるのか」と惜しまれた耆婆(※1)という名医が釈尊在世時代のインドに存在した事、
- 「彼が隠れて3千年余り、近代の我らの医薬の処方を一体誰がしてくれるのか」と嘆かせた漢方医の神農(※2)が紀元前の中国に存在した事を知り、さらには、
- 天竺・唐土で養生法としての飲茶が普及していた事を知るのである。
つまり、当時のインド・中国では、医療・治療・養生法は最先端にあるのに、それに引きかえ、わが本朝日本のそれはまことにお粗末であったことの危機感から、「茶の薬効」に焦点を当て、在宋中に見、聞き、読み、効験を経て習得した知識を集大成して「喫茶は養生の法である」と説いたところに栄西の画期性がある。
特に茶の効用に関しては、栄西がその名を知った時点で既に没後3千余年となる漢方医の祖・神農の医薬を漢代に体系化されたとする『神農本草経』にも、
【茶の味は甘く苦く、微寒にして毒なし。服すれば、瘘瘡(ろうそう:腫物・皮膚のできもの)無きなり。小便は利に、睡は少くし、疾渇(喉の渇き)を去り、宿食(消化不良)を消す。一切の病は宿食より発す】
と明快に記されている。
自らの舌で百草を舐めて医薬の礎を築いた神農の「本草学」、その後の中国だけでなく日本における漢方・本草学の発展を鑑みると、神農の先見性、先端性・実用性は4千年を経て、なお、輝き続けている。
(※1)耆婆(ぎば、あるいはジーバか)。釈迦時代の伝説的名医。ギリシャ植民地に近いタクシャシラーで医学を学び、王舎城に帰ってビンビサーラ、アジャータシャトル両王の侍医となる。深く釈迦に帰依して弟子の病を救ったといわれる。
(※2)神農(しんのう):中国の農業神。三皇五帝の一人。戦国時代、諸子百家のうち、農家が神農を奉戴した。百草を舐めて医薬を作り医薬の神と崇められる。この伝説に基づき480年ごろ作られた中国最古の漢方の古典「神農本草経」の原形は漢代に既に成立したと考えられているが原形は失われている。