82歳の追想 (12) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑫ ドナウ川クルーズで国境を越える

 

私たちツアーツアーメンバーは次の目的地ウィーンに向かうために、各々が宿泊したマリオット・ホテル特製のランチボックスを手に、ホテル近くの船着き場からクルーズ船に乗った。

 

ブダペストの真ん中を流れるドナウ川は、ドイツ・オーストリア・スロヴァキア・ハンガリー・クロチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナの10カ国を経て黒海に流れ込んでいる。

 

周囲を海に囲まれた島国に住む私にとって国境を越えるのは大仕事だ。先ず、旅客機に乗る為に近くはない国際空港に足を運び、煩雑な出入国手続きの為に、長蛇の列に並ばなければならない。

 

ところが、ドナウ川クルーズでの海外旅行では、出発地ブダペストの宿泊ホテルから徒歩数分の船着き場での出国手続き、到着地ウィーンでも船着場での入国手続きは実に簡単であった。

 

それだけではない。今回のドイツ、チェコ、ハンガリー、オーストリア訪問の大半が陸続きのため、移動はドナウ川経由を除いて小型チャーターバスであったが、マルチ・ビザの効力もあったのか、出入国手続きの簡易さはカルチャー・ショックであった。

 

クルーズ船上では、ドナウ川の豊かな流れと両岸の素晴らしい景観を楽しみながら、ツアーメンバーは小グループに分かれて寛いだひとときを過ごしていた。

 

そんな中で、私は年上の女性2人と打ち解けた会話を楽しんでいたが、定年退職した夫と一緒に参加した女性から「夫が定年後に半年ほど深刻な鬱病にかかって大変だった」と聞かされて、9年後に定年を迎える私も鬱病になるのであろうかと心配したことが忘れられない。

 

      (隅田川クルーズ船のスケッチ)

 

 

82歳の追想 (11) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑪ ハンガリー国立歌劇場で「カルメン」を

 

今回のハンガリー訪問では、オプショナルにオペラ「カルメン」の観劇が組み込まれており、オペラにそれほど馴染んでいない私でも「カルメン」は理解できるので、ツアーメンバーと共にハンガリー国立歌劇場に足を運んだ。

 

スペインを舞台にした「カルメン」は、ジブシー女のカルメンと、竜騎隊伍長のドン・ホセとの恋愛悲劇を描いた物語だが、曲芸や踊りや音楽などで移動生活を続けるジプシーはスペインやハンガリーなどに土着していて、むしろ、ジブシーの本場で独特の空気も感じられて良かった。

 

正直に言って、私は、この時まで、ハンガリーでこれほどオペラが普及していて、さらに、これほど華麗な国立歌劇場まで設営していることを知らなかった。

 

そして、休憩時間に、一階ロビーでツアーメンバーとワインを啜りながら周囲を見廻して、着飾った男女がグラスを片手に語り合う姿をながめて、王朝時代のサロンの名残を感じたのだった。

 

そして、あれから30年を経た2026年の6月に

 

6月28日には 大宮ソニックシティ 大ホール

6月30日には 東京国際フォーラム ホールA

 

で、ハンガリー国立歌劇場がモーツアルトの「魔笛」を公演するという、華やかな新聞広告を目にすることになるとは。しかも、大宮ソニックシティでの公演では、公演2ヶ月前には、既に残席僅少になるほど日本で人気があったとは。

 

(2026年4月30日朝日新聞夕刊から)

82歳の追想 (10) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑩ 敗戦からの復興 ブダペストと東京

「ドナウの真珠」と呼ばれるブダペストは、1873年にドナウ川のブダ側とペスト側が合併してハンガリーの首都として誕生した。

 

そして、1896年の世界で2番目の地下鉄の開通により、ブダペストは、歴史と近代性を併せ持つヨーロッパでも指折りの美しい産業と交易の都市となった。

 

ところが、そのブダペストは、第二次世界大戦でソビエト連邦によるブダペスト包囲戦と、ドイツ軍の攻撃による全ての橋の破壊などで街も人々も壊滅的な打撃を受けた。

 

しかし、その後のブダペストは、1964年にエリザベート橋の再建を果たし、1970年代初期にはブダペスト地下鉄の2号線、さらに1982年には3号線を開業させて1980年代後半に戦時中の被害を全て修復させたのであった。

 

それだけではなく、ブダペストは、1987年のブダ城とドナウ川沿いの建物を含めたユネスコの世界遺産の登録、2002年のブダペスト地下鉄や英雄広場、都市公園 を含めたアンドラーシ通りの世界遺産の登録リストへの追加と快挙を成し遂げた。

 

以上は、これを書くに当たってwebで検索をして、私が初めて知ったブダペストの戦後史の一部である。

 

そうか、あの美しい王宮も、鎖橋やエリザベート橋も、洗練されたアンドラーシ通りの街並みも、第二次大戦で破壊された後にあのように見事に復元されたのか。

 

このことは、私に、ブダペストの人々の自国への愛情と暮らす場所への愛着心の深さを改めて感じさせてくれた。

 

翻って、第二次世界大戦の米軍の大空襲により廃墟と化した東京の復興は、無計画・無秩序に進められたようだが、今でも都市形成においてその傾向は変わらない。

 

しかし、東京の片隅に住む私にとって、計画性や秩序を伴わない都市開発によって造られた都市は、多少美しさに欠けるものの、勢いが感じられてそれほど悪くない。

 

 

82歳の追想 (9) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑨ エレガントにライトアップされた「ブダペストの鎖橋」

 

ハンガリーの首都ブダペストを象徴する「鎖橋」は、ドナウ川のブダ側とペスト側を初めて永久に繋ぐ橋として19世紀半ばに完成した。

 

橋の全長は375m、幅は16m、橋の両岸近くに建つ一対のアーチ状の主塔にかけられたロープに相当する構造が、自転車の鎖を思わせる事から「鎖橋」と呼ばれるようになった。

 

さらに私たちの眼を楽しませてくれたのは、橋の袂に配置された4頭の巨大なライオン像であった。

 

そして、私たちのブダペストでの宿泊先は、ドナウ河畔に建つマリオット・ホテルであったが、まさか、私の部屋の窓から、ライトアップされた鎖橋が間近に見えるとは予想もしていなかったので、私は部屋に入るやいなやバルコニーに立ち尽くして飽きることなく鎖橋を眺めたのだった。

 

また、鎖橋のライトアップは、東京タワーのように全てを煌々と照らのではなく、アーチ状の主塔にかけられたロープに間隔を置いて球状のライトを真珠の首飾りのようにつないで闇の中にそれをくっきりと浮かび上がらせるという、光と闇のコントラストで鎖橋のエレガントさを巧みに活かした詩情溢れる美しさだった。

 

聞くところによると、このライトアップはオランダのフィリップス社が手掛けたとのこと。

 

今回の旅では、日本在住のハンガリー出身の男性がツアーコンダクターであった事も幸いして、彼の計らいで、翌日の夜、私たちツアー・メンバーは三台のタクシーに分乗して、ライトアップされた鎖橋を走り抜け、その後で近くのレストランでビールで乾杯しながら感激を分かち合ったのだった。

 

 

82歳の追想 (8) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑧ 私の「ブダペストの鎖橋」への細くて永い思慕

何故ブダペストに来たかと云えば、ドナウ川に懸る鎖橋に恋い焦がれていたからに他ならない。

 

長いと言うより、永い話を展開するなら、今から40年くらい前の日本がバブル景気に沸いていた頃、ある画商が西新宿のシティホテルで開催した絵画の展示即売会に私が偶然足を踏み入れた事がきっかけだった。

 

私がそこでフランスの現代画家の、静かな海に静止した二艘の帆船を描いた作品が放つ静寂さに惹きつけられて、しばし、その絵の前から動けなくなってしまったのだ。で、結構な価格であったが何とか分割払いで算段してその絵を購入することのしたのだが、その画商曰く「この作家のこのモチーフの絵は金融機関に勤めている人がよく買っていきますよ」と。

 

その事をきっかけに、その画商が当時後援していたヨーロッパの風景画を得意とする日本人画家の作品を特集した2ヶ月捲りのカレンダーの提供を三年くらい受けていたのだが、そのカレンダーの絵には必ずブダペストの鎖橋が含まれていたのだった。

 

その画家は、オランダ、フランス、スイスなど多様なヨーロッパの風景をモチーフに描いていたのだが、彼は、よほど鎖橋が気に入っていたのであろう。

 

そのうちに私の方も余りにもエレガントな「鎖橋」に魅入られて、ある日画商に、その画家に「鎖橋」の絵を描いてもらえないかと注文したのである。とはいえ、当時の私は単なる女性会社員だったので支払いは当然分割払いであった。

 

その後の私は、「ブダペストの鎖橋」を部屋に飾って毎日絵を眺めている間に鎖橋の虜になり、何時かこの橋を自分の足で歩いてみたいという気持ちが募っていったのだった。

 

ところが、定年退職後の私は、2年あまり絵画教室に通い、自分でも絵筆を摂って作品を描くのが趣味になり、遂に、自分の作品を飾るスペースを作るために「ブダペストの鎖橋」を売却する事に。

 

下の写真は私の心を釘付けにした「二艘の帆船」と自作の絵を飾った部屋。

 

 

 

82歳の追想 (7) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑦ ホテル・ドンジョバンニ

 

プラハでの宿泊ホテルは、市の中心地から少し離れていたが、バス停など交通機関から便利な場所にある4つ星の「ホテル・ドンジョバンニ」だった。

 

そこで私は、せっかくの居心地の良い豪華なホテルの居住空間を、ただ、寝るだけの場所に使うのは馬鹿馬鹿しいと考え、旅の疲れを口実にして団体行動から降りて、一人でのんびりと、ホテル・ライフを堪能することにした。

 

まず、ゆったりしたベッドで朝寝を決め込み、そして、リッチなカフェに本を持ち込んでおいしいコーヒーとケーキを脇に読書を楽しみ、昼食もホテル内のレストランで時間に追われることなくゆったりと味わい、その後はホテルの近辺をぶらぶら散歩した。

 

私としては、1989年11月9日のベルリンの壁崩壊からそれほど隔たっていないこの機会に、自由主義経済、欧米化、グローバリズムの波にのまれる前の、観光スポットになる前の、若干中世の面影を残した街の風景や人々の暮らしを見たかった。

 

ホテルを出ると、少し先にモスクが見えたので、チェコにはイスラム教が浸透しているのだなと思い、緑の木立の中を流れる小川のせせらぎの音、こんもりした美しい墓地、田園地帯の中に広い間隔を保って建つ平屋の家々、ゆっくりと歩く人々、そうした中を私自身ものんびりと散歩した。

 

2026年6月の今になって、何故、このホテルの名前を覚えているかと云えば、モーツアルトの有名なオペラ「ドン・ジョバンニ」という名前であり、ホテルの佇まいもそれを表現していたからたから。

 

さらに、折角の素敵なホテルなのに、寝るために宿泊するのはもったいないと、ツアー観光からドロップアウトしてホテル・ライフを愉しんだ体験が忘れられなかったから。

 

とは言え、今から30年も前のこと、果たしてこのホテルが現存しているかwebでチェックしたところ、1995年にオープンし2008年に改装して今なお繁盛していることがわかった。

 

と、言うことは、私たちが宿泊したときは、このホテルが開業して間もない、真新しい時だったということか。

 

 

82歳の追想 (6) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑥ プラハのカレル橋

 

                (カレル橋で)

 

プラハを流れるヴルタヴァ川に架かるカレル橋は、神聖ローマ皇帝カール4世(ボヘミア王カレル1世でもあった)の治世下の1357年に建設が始まり、ヴァーツラフ4世の統治下の1402年に完成した長さ515.7メートル、幅9.5メートルの巨大な橋である。

 

およそ50年間に亘る強大な橋の建造だけでも難事業なのに、さらに、17世紀から20世紀にかけて、橋の欄干の各側に「十字架像」や「聖人像」を含めた彫像が15体ずつ据えられたというから、これらを成し遂げたのは、強力な統治力か、あるいは強い信仰心か。

 

そんな彫像の中で、聖人ヤン・ネポムツキー像の基部にある、ネポムツキーのレリーフに触れると幸運が訪れるといわれ多くの人に触られたためつるつるになっているとか。

 

私がカレル橋を訪れた時は、未だチェコの西欧化は進んでいなかったが、それでも、橋の上には露天商が並び、ちょっとした大道芸人のパフォーマンスも観られて楽しめる場所だった。

 

あれから30年を経て、その間にグローバリズムが行き渡り、また、格安航空会社の進出により人々は気軽に世界中を旅行するようになったからカレル橋も相当賑わっているであろう。