82歳の追想 (24) ポーランド一周遊旅行 1997 ワルシャワ ④ ふらっと足を踏み入れた国立博物館と軍事博物館

 

 

写真はワルシャワ市内地図(青い楕円の中の上方は軍事博物館、下方は国立博物館、

そして赤い楕円の中はワルシャワ中央駅)

 

参加したツアーのワルシャワ滞在の自由時間に、私が一人で目的もなく中心街の大通りを歩いていたところ、偶然にもワルシャワ国立博物館に行き当たり、入館料が無料なのとオープンな雰囲気に惹かれて博物館内に足を踏み入れた。

 

後で知ったことだが、この国立博物館は、戦争の合間を縫って建設された巨大な建物で、中世美術の代表作、ヨーロッパの巨匠の作品、ポーランドおよび周辺国の肖像画、古代の遺物、彫刻など、80 万点以上の膨大なコレションを収蔵しているとの事。

 

とはいえ、その時の私は、国立博物館はおろかポーランド美術に対する予備知識もなく、また、それまでの人生で東欧の美術に触れる機会もなかったので、ただただ展示作品を順番に眺めるだけだった。

 

そして、私が漠然と感じたのは、ポーランドの「東洋の香りと文化」だったと思う。

 

広大な地続きのユーラシア大陸の中でも、東ヨーロッパは東洋に近いのだから当然のことではあるが、私は初めて東欧の代表国ポーランドの国立博物館の作品を見て、ポーランドの「東洋の香りと文化」を感じる事が出来た。

 

ワルシャワ国立博物館を出た私はその足で隣接する軍事博物館にも足を踏み入れた。

 

そこは、第二次世界大戦時のものや旧ソ連製の兵器も含む戦車や戦闘機、大砲からミサイルまで、実物の兵器がずらりと並べられ、その巨大さだけでなく、そこから立ち昇る迫力に圧倒された。

 

しかし、戦火を何度もくぐり抜けてきたポーランドの歴史を振り返る上では欠かせない博物館だと私は思った。

 

82歳の追想 (23) ポーランド一周遊旅行 1997 ワルシャワ ③ ショパンを偲ぶ ワジェンキ公園にて

 

         ショパンの像の前に収まる人たち

 

          公園内の深い木立

 

 

       公園で出会ったチャーミングな少女達

 

ポーランドは作曲家ショパン(Fryderyk Chopin)(1810年-1849年)の故国で、首都ワルシャワには「ショパン博物館」、ショパン像のある「ワジェンキ公園」、そして「ショパンの生家」など、ショパンに関するスポットがいくつかあるが、今回のツアーで私たちは「ショパンの生家」と「ワジェンキ公園」を見学した。

 

そのうちの「ショパンの生家」の見学に際しては、私は併設のショップでショパンの曲を演奏した二人のポーランド人ピアニストのCDを一枚ずつ買い、帰国後にしばらく聞き惚れていた。

 

しかし、少し前に部屋を片付けた時に多くのCDと共にこの2枚もリサイクル店に売却してしまい、今では少し残念に思っている。

 

で、ここでは「ワジェンキ公園」の回想を。

 

ワジェンキ公園は、ワルシャワ市内の中心部よりやや東側に位置して広い敷地を有するが、深い緑の木立に囲まれた一角にショパンの像がある。

 

私たちが訪れた日は、幅広い世代の多くの観光客がショパンの像の周囲をゆったり散策し、中には像によじ登る者もいたが、彼らの表情からは、今なお、ショパンがポーランド国民から愛されている事が窺えた。

 

ところで、私たちが訪問した1997年頃には開催されていなかったようだが、最近のツアー・ガイドブックによれば、サマー・シーズンの毎週日曜日に、ショパンの像の前で開かれる無料の「ショパン・コンサート」が観光客の注目を浴びているそうだ。

 

 

82歳の追想 (22) ポーランド一周遊旅行 1997 ワルシャワ ② 古典劇の背景のような街

 

 

     ワルシャワの旧市街広場 1

 

 

     ワルシャワの旧市街広場 2

 

     ワルシャワの市街

 

   ワルシャワの繁華街(ケンタッキーとピザハットが隣り合わせ)

 

初めてポーランドの土を踏んでワルシャワで一泊した後に、クラクフ、グダニスク、チェンストホーヴァ、ポズナニ、そして、避暑地ザコバネなどを巡って再びワルシャワに戻ってきた。

 

16世紀にクラクフに代わってポーランドの首都となったワルシャワは、歴代の王が建てた宮廷や公園があちこちに見られる美しい都市であったが、第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けた後、市民の熱意により「煉瓦のヒビに至るまで」往時の町並みを復元して、1980年に「ワルシャワ歴史地区」としてユネスコの世界遺産に登録された。

 

そんなワルシャワの街に初めて足を踏み入れて私が感じたことは、まるで古典劇の舞台に登場した人物の気分だった。何故かエレガントな気持ちにさせられたのだ。

 

この感覚は、私が、パリ、ロンドン、ボストン、リスボンなどの他の都市を旅した時には味わうことのなかったものだった。これらの都市では私は東京にいるのと全く変わらない慌ただしい日常生活の感覚で行動していたから。

 

82歳の追想 (21) ポーランド一周遊旅行 1997  クラクフ ポーランドの古都

 

1997年の5月19日から「ポーランド周遊12日間」パックツアーに参加した時点で、私のポーランドに関する知識は乏しかった。

 

精々私が知っていたのは「連帯」議長で1990年の大統領選挙で当選したレフ・ヴァウェンサ(Lech Wałęsa)と、映画「灰とダイヤモンド」、「地下水道」のアンジェイ・ワイダ(Andrzej Wajda)監督だけだった。

 

当時の東京の書店には、ポーランドに関するツアー・ガイドブックは見当たらず、いわば言葉も理解できない未知の世界に、ツアー・コンダクターに引率され、あちこちキョロキョロしながらの観光旅行であった。

 

と言うわけで、当時の記憶は殆ど薄れているが、たまたまその時、私は使い捨てカメラを携行して、これはと思った光景を手当たり次第に摂っていたので、今回は、その写真とwebで検索した情報や写真と記憶を照合して回想記にまとめてみた。

          

さて、クラクフ(Kraków)はポーランドで最も歴史ある都市の一つであり、17世紀初頭にワルシャワに遷都するまではクラクフがポーランド王国の首都であり、第二次世界大戦であまり被害を受けなかったこともあって、世界遺産に登録されている旧市街には、歴史的な建造物が多く残り、国立美術館、各種博物館や美術館、織物会館などなど文化施設が存在している上に、旧王宮であるヴァヴェル城や聖マリア教会、織物会館などがある。

 

そういう意味では、日本の京都と共通点が多い。京都も1867年の明治維新までは日本の首都であったし、第二次世界大戦の空襲は東京と比較しても被害は少なかったので世界遺産の歴史的建造物や、京都国立博物館、京都文化博物館を初めとする文化施設も多く西陣織会館も存在している。

 

さらに、ポーランドの日本美術への関心を示すものとして、日本美術品収集家フェリクス・“マンガ”・ヤシェンスキ(ポーランド語版)の日本美術コレクションが展示されている「日本美術技術博物館“マンガ”館」(建物の設計は磯崎新)が挙げられる。

 

因みに館名の「マンガ」の直接の由来はヤシェンスキが美術評論をする際のペンネームであるが、そのヤシェンスキは葛飾北斎の北斎漫画にちなんだとされている。

 

他方で、京都のポーランドへの関心を示すものとしては、京都国立近代美術館が2005年3月に開催したクラクフを含めたポーランドの美術をテーマとした展示が挙げられる。

 

クラクフを含めたポーランドを特集した展示の京都国立近代美術館のサイトは下記の通り。

 

〈若きポーランド〉-色彩と魂の詩うた 1890-1918|京都国立近代美術館 | The National Museum of Modern Art, Kyoto

 

さて、クラクフの紹介はここで終えて、私が使い捨てカメラで撮影した1997年当時の「クラクフの街と人々」の写真を紹介したい。

 

 

クラクフの中心街

 

クラクフの中心街

 

クラクフの人々

 

クラクフの人々

 

82歳の追想 (20) ポーランド一周遊旅行 1997 グダニスク ハンザ同盟の面影と「連帯」ワレサ議長を偲ぶ

 

ポーランドで最も美しい街に数えられるグダニスクは千年の歴史を持つ都市であり、かつ、バルト海に面した港湾都市で、14世紀にハンザ同盟に加盟してからはハンザ同盟間の貿易とポーランド国内の貿易によって莫大な利益を得て15~17世紀に最盛期を迎えた。

 

ところで、ハンザ同盟とは、中世後期に北海とバルト海周辺のドイツ系都市による経済同盟のことで、「ハンザ」は、もともと「商人仲間」を意味し、14世紀ごろの最盛期には、現在のドイツをはじめ、ポーランドやスウェーデン、エストニアなど広範囲にわたる加盟都市数200を誇る一大連合となり、北部ヨーロッパの経済圏を牛耳るほどの力をもっていたとされている。

 

このような背景を持つグダニスクの旧市街には、ゴシック、ルネッサンス、バロックといった各時代を代表する様式の建物をあちこちに見ることが出来るが、ここでは、特にハンザ同盟の面影を残す建築様式の街から当時を偲ぶことにした。

 

    それと共に、じっくり写真を眺めている内にゴミ箱と清潔な道路に注目した事を付け加えておきたい。

 

 

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  旧市街広場、左端は市庁舎 

 

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     ドウーギ広場とゴミ箱(左端)

 

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旧市街とゴミ箱(右側)

 

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 旧市街の少年少女達

 

さて、ここで、全く前知識の無かったグダニスクについて、ウエブ検索で得た情報で私なりのグダンスクについての大まかな理解を述べてみることに。

 

○   グダニスクの街並みの復元と民主化運動

 

1952年にポーランドが独立を回復すると、ダンツィヒはもとの「グダニスク」を公式名称としてポーランド領に編入された。実に159年ぶりのポーランド領への復帰であった。旧市街など、戦争で廃墟となっていた市街地は、残された資料をもとにポーランド人の手によって完全に復元された。

 新生グダニスクは造船業と貿易を主要な産業として大いに発展したが、1970年代のオイルショックによって経済が低迷し、ソビエト連邦が支配するコメコンの経済体制に対する不信から民主化運動と労働運動が始まるようになった。

 そして、1970年12月には市内で暴動が発生、シチェチンなどへ波及するきっかけとなった。同年12月17日、ツィランキェヴィチ首相は事実上の戒厳令とデモに対して発砲許可を出したことを表明。政府は暴動を「ならず者の、しわざ」と位置付けて弾圧したが、これが、1980年代の民主化を要求する運動への下敷きとなった。

 

○ 「連帯」のワレサ議長がポーランド大統領になる

 

1980年代初め、ポーランドを民主化に導く「連帯」の指導によるグダニスク造船所労働者のストライキが行われ、こうした運動が1989年のポーランド民主化につながった。1990年には「連帯」指導者であったレフ・ヴァヴェンサ(ワレサ)がポーランド大統領になった。

 

○ ユネスコの世界遺産の正式登録を待つ

 

現在のグダニスクはポーランド最大の観光地の一つで、内外の多くの観光客でにぎわい、また主要貿易港の一つでもある。ポーランド北部の文化の中心地でもあり、一年を通じて多くの文化的な催しが行われている。ポーランド市民が精密に復元したグダニスク旧市街はその文化的価値が認められ、ユネスコの世界遺産の暫定リストに載っており、世界遺産としての正式登録を待っている。

 

 

82歳の追想 (19) ポーランド一周遊旅行 1997 ワルシャワ ① ツアーメンバーの医療費が無料だった懐の深さ

 

 

私は、勤務先の1997年のリフレッシュ連続2週間休暇を活用して、5月19日出発の「ポーランド周遊12日間」のパック・ツアーに参加した。この時の顔ぶれは定年退職した夫妻3組と個人参加7名の計13名で、ポーランドでの国内移動は小型チャーターバスだった。

 

成田空港を出発して長時間のフライトの末に私たちが到着したのは、ワルシャワ中央駅に隣接する高層のマリオット・ホテルだった。

 

しかし残念なことに、私たちがこの素敵なホテルで宿泊するのは1泊だけで、翌日からはクラクフ・グダニスクを初めとする周遊旅行に出発し、再びワルシャワに戻って宿泊するのは別のホテル。

 

1997年当時には東京からワルシャワまでの直行便がないこともあって、ワルシャワ到着の夜は、私たちツアーメンバーはホテルでの早めの夕食を終え、長い空路の疲れを癒やすと共に、次の長旅に備えて充電する必要があった。

 

ところが、夕食後に一人参加の60代の女性が腹痛を起こし、ホテルスタッフのアドバイスを受けたツアー・コンダクターが付き添って、最寄りの病院にタクシーで駆け込むことになった。

 

ホテルの部屋に戻った私は心配で、ホテル前の大通りが見渡せる自室の窓を窺いながらその女性が無事に戻ってくるのを待っていたが、結局その夜に結果を知ることは出来なかった。

 

しかし、翌日の朝食時の食堂で彼女の無事な姿を見て安心した。彼女の話によると、長い空路の疲れで体調を崩したとのこと。

 

そして、何よりも、私が今でも忘れられないことは、外国人観光客にも拘わらずその時の医療費が無料というポーランドの寛大さだった。

 

写真は出発日の朝、マリオット・ホテルの部屋の窓から眺めたワルシャワ市街

82歳の追想 (18) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑱ 「クリムト」と 「シーレ」に焦がれて

 

 

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ウィーン滞在ではエゴン・シーレとグスタフ・クリムトの作品をじっくり鑑賞する事を楽しみにしていたのだが、折角のオーストリア・ギャラリー(ウィーンのベルヴェール宮殿内にある美術館)で、オーストリアの中心的な画家の作品と、特にクリムトとシーレのコレクションは世界に知られていて、

そのなかでも、

 

クリムトの「ユディト」・「接吻」、シーレの「首を傾げた自画像」と「抱擁」

 

は、じっくり鑑賞したかったのだが、団体旅行の制約で代表的な作品の前を駆け足で通り過ぎる他はなかった。

 

ところがその24年後の、2019年夏の東京はウィーン美術及びクリムト&シーレ作品真っ盛りだったのだ。

 

一つは東京都美術館で開催の”Gustav Klimt: Vienna – Japan 1900”だった。

クリムト展 ウィーンと日本 19 00|東京都美術館

 

もう一つは、国立新美術館で開催された”ウィーン・モダン クリムト、シーレ  世紀末への道”だった。

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道

 

この二つの美術展をじっくり眺めて、私はクリムトについての印象を大きく変えることになった。

 

それまでの私は、金箔で彩られた作品”接吻”や”ユディトⅠ”等から、クリムトは世紀末の退廃的な気怠い女性を好んで描く画家と思い込んでいた。

 

ところが、東京都美術館で”丘の見える庭の風景”等の風景画を見て、クリムトが抑制の効いた鮮やかな色彩感覚の持ち主であることがわかった。

 

そして何よりも最も私の感動を誘った作品は、展示場の天井に近い壁に沿って絵巻物のように展開する”ベートーベン・シリーズ”だった。

この作品から、ベートーベンに抱くクリムトの尊敬と強い愛情が勢いを伴って立ち上るのが感じられて、立ち去りがたい思いに囚われた私はこの長い作品の前を何度も行き来したのだ。

 

写真は国立新美術館が入館者に配布した団扇の表と裏(下方の穴に親指を差し込んで風を起こして涼む)