これを書くに至ったのは、私はウィンナ・コーヒーがどういう経路で日本に広まったのかを知りたくて、Webで検索していたところ下記の文章に巡り会った。
『日本では、コーヒーの上にホイップ・クリームを浮かべたものが、一般的に「ウィンナ・コーヒー」と呼ばれる。この名前を冠したコーヒーを初めて提供した店は、東京の神田神保町にある喫茶店「ラドリオ」で、同店の常連であった東京大学の教授がウィーンに留学した際に目にしたコーヒーの話を参考に開発されたものであるが、この名称の由来となったウィーンには「ウィンナ・コーヒー」は存在しない。』
そして、この文章の中の、東京神田の神保町にある喫茶店「ラドリオ」の文字を目にしたとき、一気に、私が大手町の会社に勤務していた頃、大手町から都電で神保町に足繁く通った頃の神保町の景色が蘇ったのである。
それは、私が、大手町ビル内のオフィス勤務にも少し慣れて、気持ちにゆとりが生まれてきた頃、大手町ビルの日比谷通り口から都電が走っていることを知り、時々、退社後にそれに乗って、田舎者よろしく、あちこち途中下車して沿線風景を楽しんでいたが、その内に、子供の頃からの「本好き」「活字の虫」の読書欲を満たす古書店街の神保町に通うのが楽しみとなっていた。
【都電は、昭和42年(1967年)から昭和47年(1972年)にかけて順次廃止され、今は荒川線のみが残っているようです】
あの頃の神保町は、古色蒼然とした幾つかの大学と古書店を軸に、あちこちの通りや露地裏に安食堂、珈琲専門店、ジャズ喫茶、名曲喫茶、ビヤホール、パチンコ店や雀荘がひしめき、混沌とした人間臭い街だった。
そんな街と行き交う人の醸す雰囲気と雑然とした独特の臭いが、地方の高校を卒業して東京での会社勤めを選んだ「上京者」の疎外感と孤独を癒す作用をもたらしていたのではないかと、今にして思う。

ここで、優に半世紀を超えたおぼろな記憶から、当時の私の神保町「ウロウロ歩きコース」を掘り起こしてみたい。(※)括弧内の番号は上記地図の番号に該当。
先ずは、お目当ての本を求めて古書店を探索した後の空腹しのぎに「キッチン・グラン」(赤1)で、80円のメンチカツ定食をよく食べた。
あの頃は大学生も、勤め人も、そして今ほどメディアに露出していなかった教授方も、一様に懐に余裕が無かったようで、広いカウンター席で、天ぷら定食が100円台のチェーン店「いもや」(青2)と共に、キッチン・グランは有難い店だった。
または、古書店で、お目当てや掘り出し物を見つけた時は、少しでも早く読みたい一心で、近くの喫茶店に駆け込み、珈琲を片手に、胸を時めかせてページをめくるのが常だった。店内では、私と同様に、買ったばかりの本の包装紙をもどかしそうにほどいている顔・顔・顔があった。
あの頃、私が良く駆け込んだ喫茶店はエリカ(赤4)や、ラドリオ(赤3)、李白(青6)である。神保町の喫茶店はそれぞれに特徴があり、エリカは濃い目の珈琲をユニホーム姿のマスターとおぼしき中年男性が丁寧に点ててくれ、ラドリオは詩の雑誌「ユリイカ」編集部の近くであったから詩人や文学者の溜まり場であり、通りから少し入ったところにあった李白は障子硝子に行燈型の和紙のスタンドが目印で、李朝の染付けカップで珈琲を味わえる、数寄者の店主を思わせる店であった。
時に職場の人間関係で屈折した気持ちを抱えたときは、書泉グランデの裏にある「ミロンガ」(赤5)で、タンゴにタップリ浸る事が多かった。当時の伝聞であるが、この店はアルゼンチン・タンゴのレコードの所蔵が数千枚とかで、タンゴ好きには知られた存在だった。
二十代前半の若い女が、薄暗い喫茶店で泥臭いアルゼンチン・タンゴの音色に浸るのは確かに変わっているが、私は、中学生の頃から文化放送の「これがタンゴだ」という番組を、枕元に置いた小さなラジオにかじりついて聴いた早熟なガキであったから、番組テーマ曲の「エル・ジョロン(泣き虫)」を初め「淡き火影に」、「エル・チョクロ」などを聞くと、高ぶった気持ちが自然に落ち着いてくるのだった。
キッチン・グラン(赤1) エリカの店内(赤4)

ミロンガの店内(赤5) 拍水堂のケーキ(赤7)
共栄堂のスマトラカレーと焼リンゴ(赤8)