82歳の追想 (19) ポーランド一周遊旅行 1997 ワルシャワ ① ツアーメンバーの医療費が無料だった懐の深さ

 

 

私は、勤務先の1997年のリフレッシュ連続2週間休暇を活用して、5月19日出発の「ポーランド周遊12日間」のパック・ツアーに参加した。この時の顔ぶれは定年退職した夫妻3組と個人参加7名の計13名で、ポーランドでの国内移動は小型チャーターバスだった。

 

成田空港を出発して長時間のフライトの末に私たちが到着したのは、ワルシャワ中央駅に隣接する高層のマリオット・ホテルだった。

 

しかし残念なことに、私たちがこの素敵なホテルで宿泊するのは1泊だけで、翌日からはクラクフ・グダニスクを初めとする周遊旅行に出発し、再びワルシャワに戻って宿泊するのは別のホテル。

 

1997年当時には東京からワルシャワまでの直行便がないこともあって、ワルシャワ到着の夜は、私たちツアーメンバーはホテルでの早めの夕食を終え、長い空路の疲れを癒やすと共に、次の長旅に備えて充電する必要があった。

 

ところが、夕食後に一人参加の60代の女性が腹痛を起こし、ホテルスタッフのアドバイスを受けたツアー・コンダクターが付き添って、最寄りの病院にタクシーで駆け込むことになった。

 

ホテルの部屋に戻った私は心配で、ホテル前の大通りが見渡せる自室の窓を窺いながらその女性が無事に戻ってくるのを待っていたが、結局その夜に結果を知ることは出来なかった。

 

しかし、翌日の朝食時の食堂で彼女の無事な姿を見て安心した。彼女の話によると、長い空路の疲れで体調を崩したとのこと。

 

そして、何よりも、私が今でも忘れられないことは、外国人観光客にも拘わらずその時の医療費が無料というポーランドの寛大さだった。

 

写真は出発日の朝、マリオット・ホテルの部屋の窓から眺めたワルシャワ市街

82歳の追想 (18) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑱ 「クリムト」と 「シーレ」に焦がれて

 

 

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ウィーン滞在ではエゴン・シーレとグスタフ・クリムトの作品をじっくり鑑賞する事を楽しみにしていたのだが、折角のオーストリア・ギャラリー(ウィーンのベルヴェール宮殿内にある美術館)で、オーストリアの中心的な画家の作品と、特にクリムトとシーレのコレクションは世界に知られていて、

そのなかでも、

 

クリムトの「ユディト」・「接吻」、シーレの「首を傾げた自画像」と「抱擁」

 

は、じっくり鑑賞したかったのだが、団体旅行の制約で代表的な作品の前を駆け足で通り過ぎる他はなかった。

 

ところがその24年後の、2019年夏の東京はウィーン美術及びクリムト&シーレ作品真っ盛りだったのだ。

 

一つは東京都美術館で開催の”Gustav Klimt: Vienna – Japan 1900”だった。

クリムト展 ウィーンと日本 19 00|東京都美術館

 

もう一つは、国立新美術館で開催された”ウィーン・モダン クリムト、シーレ  世紀末への道だった。

ウィーン・モダン クリムト、シーレ 世紀末への道

 

この二つの美術展をじっくり眺めて、私はクリムトについての印象を大きく変えることになった。

 

それまでの私は、金箔で彩られた作品”接吻”や”ユディトⅠ”等から、クリムトは世紀末の退廃的な気怠い女性を好んで描く画家と思い込んでいた。

 

ところが、東京都美術館で”丘の見える庭の風景”等の風景画を見て、クリムトが抑制の効いた鮮やかな色彩感覚の持ち主であることがわかった。

 

そして何よりも最も私の感動を誘った作品は、展示場の天井に近い壁に沿って絵巻物のように展開する”ベートーベン・シリーズ”だった。

この作品から、ベートーベンに抱くクリムトの尊敬と強い愛情が勢いを伴って立ち上るのが感じられて、立ち去りがたい思いに囚われた私はこの長い作品の前を何度も行き来したのだ。

 

写真は国立新美術館が入館者に配布した団扇の表と裏(下方の穴に親指を差し込んで風を起こして涼む)

 

82歳の追想 (17) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑰  記憶の連鎖 ウィンナ・コーヒー → 喫茶「ラドリオ」 → 大手町から都電で通った頃の神保町

 

これを書くに至ったのは、私はウィンナ・コーヒーがどういう経路で日本に広まったのかを知りたくて、Webで検索していたところ下記の文章に巡り会った。

 

『日本では、コーヒーの上にホイップ・クリームを浮かべたものが、一般的に「ウィンナ・コーヒー」と呼ばれる。この名前を冠したコーヒーを初めて提供した店は、東京の神田神保町にある喫茶店「ラドリオ」で、同店の常連であった東京大学の教授がウィーンに留学した際に目にしたコーヒーの話を参考に開発されたものであるが、この名称の由来となったウィーンには「ウィンナ・コーヒー」は存在しない。』

 

そして、この文章の中の、東京神田の神保町にある喫茶店「ラドリオ」の文字を目にしたとき、一気に、私が大手町の会社に勤務していた頃、大手町から都電で神保町に足繁く通った頃の神保町の景色が蘇ったのである。

 

それは、私が、大手町ビル内のオフィス勤務にも少し慣れて、気持ちにゆとりが生まれてきた頃、大手町ビルの日比谷通り口から都電が走っていることを知り、時々、退社後にそれに乗って、田舎者よろしく、あちこち途中下車して沿線風景を楽しんでいたが、その内に、子供の頃からの「本好き」「活字の虫」の読書欲を満たす古書店街の神保町に通うのが楽しみとなっていた。

 【都電は、昭和42年(1967年)から昭和47年(1972年)にかけて順次廃止され、今は荒川線のみが残っているようです】

 

あの頃の神保町は、古色蒼然とした幾つかの大学と古書店を軸に、あちこちの通りや露地裏に安食堂、珈琲専門店、ジャズ喫茶、名曲喫茶、ビヤホール、パチンコ店や雀荘がひしめき、混沌とした人間臭い街だった。

 

そんな街と行き交う人の醸す雰囲気と雑然とした独特の臭いが、地方の高校を卒業して東京での会社勤めを選んだ「上京者」の疎外感と孤独を癒す作用をもたらしていたのではないかと、今にして思う。

 

 

ここで、優に半世紀を超えたおぼろな記憶から、当時の私の神保町「ウロウロ歩きコース」を掘り起こしてみたい。()括弧内の番号は上記地図の番号に該当。

 

先ずは、お目当ての本を求めて古書店を探索した後の空腹しのぎに「キッチン・グラン」(赤1)で、80円のメンチカツ定食をよく食べた。

あの頃は大学生も、勤め人も、そして今ほどメディアに露出していなかった教授方も、一様に懐に余裕が無かったようで、広いカウンター席で、天ぷら定食が100円台のチェーン店「いもや」(青2)と共に、キッチン・グランは有難い店だった。

 

または、古書店で、お目当てや掘り出し物を見つけた時は、少しでも早く読みたい一心で、近くの喫茶店に駆け込み、珈琲を片手に、胸を時めかせてページをめくるのが常だった。店内では、私と同様に、買ったばかりの本の包装紙をもどかしそうにほどいている顔・顔・顔があった。

 

あの頃、私が良く駆け込んだ喫茶店はエリカ(赤4)や、ラドリオ(赤3)、李白(青6)である。神保町の喫茶店はそれぞれに特徴があり、エリカは濃い目の珈琲をユニホーム姿のマスターとおぼしき中年男性が丁寧に点ててくれ、ラドリオは詩の雑誌「ユリイカ」編集部の近くであったから詩人や文学者の溜まり場であり、通りから少し入ったところにあった李白は障子硝子に行燈型の和紙のスタンドが目印で、李朝の染付けカップで珈琲を味わえる、数寄者の店主を思わせる店であった。

 

時に職場の人間関係で屈折した気持ちを抱えたときは、書泉グランデの裏にある「ミロンガ」(赤5)で、タンゴにタップリ浸る事が多かった。当時の伝聞であるが、この店はアルゼンチン・タンゴのレコードの所蔵が数千枚とかで、タンゴ好きには知られた存在だった。

 

二十代前半の若い女が、薄暗い喫茶店で泥臭いアルゼンチン・タンゴの音色に浸るのは確かに変わっているが、私は、中学生の頃から文化放送の「これがタンゴだ」という番組を、枕元に置いた小さなラジオにかじりついて聴いた早熟なガキであったから、番組テーマ曲の「エル・ジョロン(泣き虫)」を初め「淡き火影に」、「エル・チョクロ」などを聞くと、高ぶった気持ちが自然に落ち着いてくるのだった。

 

 

       

  キッチン・グラン(赤1)                       エリカの店内(赤4

 

  

   ミロンガの店内(赤5)             拍水堂のケーキ(赤7

 

   

 

      共栄堂のスマトラカレーと焼リンゴ(赤8

82歳の追想 (16) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑯  ウィンナ・コーヒーとザッハ・トルテを味わう

 

今回のツアーでは、ウィーン市内観光にホテル・ザッハーのカフェでのコーヒータイムが設定されていた。

 

ツアーコンダクターに引率された私たちメンバーが豪華な内装のカフェに着席すると、メニューに目を通すまでもなく、私たちのテーブルには、ウィンナ・コーヒーとザッハ・トルテが供された。

 

当時の日本では海外旅行が盛んで、とりわけ幅広い人たちの間でヨーロッパが人気で、帰国した人たちや旅行会社の動向から、マスコミを通して「ウィーンに行くならウィンナ・コーヒーとザッハ・トルテを味わうべき」という風潮が広まると共に、東京の洒落たカフェではウィンナ・コーヒーの人気は高かった。

 

私もその一人で、その頃、自由が丘駅南口に隣接したカフェ「MOZART」のエレガントな店内で、ウィンナ・コーヒーとザッハ・トルテを前にモーツアルトのメロディーを聴きながら寛いだりした。残念ながらその店は2014年1月頃に閉店したようだが。

 

そんな風潮の最中での私たちのウィーン旅行だったから、「日本人観光客にはウィンナ・コーヒーとザッハ・トルテ」とのコンセプトが日本の旅行会社とウィーンの観光企業との間で生まれていたのでは、と、その時私は独断で推測していた。

 

ところで、その時、私はテーブルの脇のメニューを手に取り、目を通したのだが、そこには、ウィンナ・コーヒーの文字は記載されていなかった。

 

はて、ウィンナ・コーヒーは何処で生まれたのかな?

 


 

 

82歳の追想 (15) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑮ ウィーンの三重価格?

 

ウィーン国立歌劇場から宿泊ホテルに戻って皆で感想を述べ合っている時、40代と20代の母娘と私の乗った行きのタクシーだけが、他の二組の二倍近い価格を支払わされた事が判明した。

 

つまり、私たちの組だけが、タクシー・ドライバーからふっかけられたのだ。

 

そういえば、私たちがタクシーに乗った直後から、30代半ばとおぼしき、パサパサの長い髪を垂らした化粧気のない女性ドライバーは、頻繁に舌打ちしたり、ハンドルを叩いたりして、過剰にイライラした態度を見せていた。

 

私たちは、そんな彼女を見て、夕暮れ時の混雑している通りを運転するのは大変なのだと彼女に同情していたのだが。

 

なるほど、そのタクシー・ドライバーは抜け目なくそんな私たちを観察していたのだ。

 

ここで、歌劇場行きの3台のタクシーに分乗したメンバーを分析すると、

1台目には40代と20代の母娘と私、2台目にはヨーロッパ駐在経験のある定年退職した夫妻を含む4人、3台目には元ボン公使館スタッフの夫妻を含む3人。

 

つまり私たちのグループは、その女性タクシー・ドライバーにとって異国から来た騙しやすい観光客だったのだ。

 

以下は、帰国後海外旅行大好きな男性同僚から聞いた話だが、「国際機関の多いウィーンには三種類の価格体系がある」と。

 

一つ目は優遇される外交官価格、二つ目は通常価格、そして三つ目は海外観光客価格。

 

それを聞いて、確かに、一番ふっかけやすいのは、お上りさん丸出しの海外観光客であろうと、私は妙に納得してしまった。

 





 

 

82歳の追想 (14) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑭ ウィーン国立歌劇場で「薔薇の騎士」を観る

 

ウィーン到着の翌日、宿泊ホテルのロビーでツアーメンバーと寛いでいる時、ヨーロッパ駐在経験の豊富な定年退職した男性から、「この時季のウィーン国立歌劇場は毎日公演を行っているので、今夜オペラを見たい人がいれば、私がホテルのフロントを介してチケットを入手しますが」との提案があり、私を含めた10人が手を上げた。

 

で、その男性が入手したチケットの配分は、希望者がじゃんけんをして、勝った人から高級席が埋まり、残念ながら負けた私は一番安い席を手にすることになった。

 

そして、私たちは夕食後にホテルの前からタクシー3台に分乗して劇場に向かい、休憩時間に1階ロビーに集合という取り決めをしてそれぞれの座席に急いだが、私の席はエレベーターの無い5階だったので階段を駆け上がらなくてはならなかった。

 

また、その時の私は、手塚治虫の「リボンの騎士」は知っていたが、馴染みのない演目の「薔薇の騎士」で不安だったが、隣の席に座ったドイツのボン駐在経験を持つ女性(彼女の夫は1階の高級席)が丁寧に説明をしてくれたので大いに助かった。

 

今ではおぼろげな記憶だが、オペラ「薔薇の騎士」は、ウィーンの元帥の中年の妻が戯れに若く美しい貴公子と軽い気持ちで浮気をしている内に、若い貴公子の情熱に押されて本気に愛し合うことになったことから大騒動に発展する華麗な宮廷劇で、見ている内に私は忽ち引き込まれてしまった。

 

また、若き貴公子に扮したのは美しい女性で、日本の演劇界では女形とか宝塚で馴染みがあるので、少し宝塚の気分も味わえた。

 

そうそう、休憩時間に階段を駆け下りて一階ロビーでツアーメンバーとワインを呑みながら雑談を交わしたが、周囲では品の良いシックな装いの男女がシャンパンやワインを片手に寛いだ雑談を交わし、エレガントなインテリアも伴って、まるで中世の社交場の雰囲気を味わうことが出来た。

 

今振り返ってみると、あの時は、若い女性より、中年の女性の方が、気品がありエレガントだった印象が残っている。

 

 

     (終演後劇場前で勢揃い)

 

 

 

 

 

82歳の追想 (13) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑬映画「第三の男」の名場面のウィーンのプラター公園の大観覧車の下をバスで通り抜ける

 

ツアーメンバーとブダペストの船着き場から乗ったクルーズ船でドナウ川遊覧を楽しみ、着船場から小型チャーターバスに乗り換えて窓からの景色を眺めていたところ、上方から大観覧車が目に入り、その時私はウィーンに来たのだと実感した。

 

そう、1976年の1月に、東京銀座の映画館で見た1949年キャロル・リードが監督した映画「第三の男」のスリリングな場面で息をのんだ、まごう事なきウィーンのプラター公園名物の大観覧車だ。

 

第二次大戦後の混乱期、親友を騙して生き延びようとする大悪党のハリー(オーソン・ウェルズ)、信頼したハリーに裏切られて酒に溺れる売れない作家のホリー(ジョゼフ・コットン)、自分の命を救ってくれたホリーから愛されながらもハリーを忘れられないアンナ(アリダ・ヴァリ)。

 

映画のラスト・シーンは、アンナがホリーの視線を無視して昂然と頭を上げて並木道を歩き去る場面であった。

 

 

 

 

   

そして、私が映画を回想している間に、私たちの乗った小型チャーターバスも同じ並木道を通り抜けた。