82歳の追想 (15) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑮ ウィーンの三重価格?

 

ウィーン国立歌劇場から宿泊ホテルに戻って皆で感想を述べ合っている時、40代と20代の母娘と私の乗った行きのタクシーだけが、他の二組の二倍近い価格を支払わされた事が判明した。

 

つまり、私たちの組だけが、タクシー・ドライバーからふっかけられたのだ。

 

そういえば、私たちがタクシーに乗った直後から、30代半ばとおぼしき、パサパサの長い髪を垂らした化粧気のない女性ドライバーは、頻繁に舌打ちしたり、ハンドルを叩いたりして、過剰にイライラした態度を見せていた。

 

私たちは、そんな彼女を見て、夕暮れ時の混雑している通りを運転するのは大変なのだと彼女に同情していたのだが。

 

なるほど、そのタクシー・ドライバーは抜け目なくそんな私たちを観察していたのだ。

 

ここで、歌劇場行きの3台のタクシーに分乗したメンバーを分析すると、

1台目には40代と20代の母娘と私、2台目にはヨーロッパ駐在経験のある定年退職した夫妻を含む4人、3台目には元ボン公使館スタッフの夫妻を含む3人。

 

つまり私たちのグループは、その女性タクシー・ドライバーにとって異国から来た騙しやすい観光客だったのだ。

 

以下は、帰国後海外旅行大好きな男性同僚から聞いた話だが、「国際機関の多いウィーンには三種類の価格体系がある」と。

 

一つ目は優遇される外交官価格、二つ目は通常価格、そして三つ目は海外観光客価格。

 

それを聞いて、確かに、一番ふっかけやすいのは、お上りさん丸出しの海外観光客であろうと、私は妙に納得してしまった。

 





 

 

82歳の追想 (14) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑭ ウィーン国立歌劇場で「薔薇の騎士」を観る

 

ウィーン到着の翌日、宿泊ホテルのロビーでツアーメンバーと寛いでいる時、ヨーロッパ駐在経験の豊富な定年退職した男性から、「この時季のウィーン国立歌劇場は毎日公演を行っているので、今夜オペラを見たい人がいれば、私がホテルのフロントを介してチケットを入手しますが」との提案があり、私を含めた10人が手を上げた。

 

で、その男性が入手したチケットの配分は、希望者がじゃんけんをして、勝った人から高級席が埋まり、残念ながら負けた私は一番安い席を手にすることになった。

 

そして、私たちは夕食後にホテルの前からタクシー3台に分乗して劇場に向かい、休憩時間に1階ロビーに集合という取り決めをしてそれぞれの座席に急いだが、私の席はエレベーターの無い5階だったので階段を駆け上がらなくてはならなかった。

 

また、その時の私は、手塚治虫の「リボンの騎士」は知っていたが、馴染みのない演目の「薔薇の騎士」で不安だったが、隣の席に座ったドイツのボン駐在経験を持つ女性(彼女の夫は1階の高級席)が丁寧に説明をしてくれたので大いに助かった。

 

今ではおぼろげな記憶だが、オペラ「薔薇の騎士」は、ウィーンの元帥の中年の妻が戯れに若く美しい貴公子と軽い気持ちで浮気をしている内に、若い貴公子の情熱に押されて本気に愛し合うことになったことから大騒動に発展する華麗な宮廷劇で、見ている内に私は忽ち引き込まれてしまった。

 

また、若き貴公子に扮したのは美しい女性で、日本の演劇界では女形とか宝塚で馴染みがあるので、少し宝塚の気分も味わえた。

 

そうそう、休憩時間に階段を駆け下りて一階ロビーでツアーメンバーとワインを呑みながら雑談を交わしたが、周囲では品の良いシックな装いの男女がシャンパンやワインを片手に寛いだ雑談を交わし、エレガントなインテリアも伴って、まるで中世の社交場の雰囲気を味わうことが出来た。

 

今振り返ってみると、あの時は、若い女性より、中年の女性の方が、気品がありエレガントだった印象が残っている。

 

 

     (終演後劇場前で勢揃い)

 

 

 

 

 

82歳の追想 (13) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑬映画「第三の男」の名場面のウィーンのプラター公園の大観覧車の下をバスで通り抜ける

 

ツアーメンバーとブダペストの船着き場から乗ったクルーズ船でドナウ川遊覧を楽しみ、着船場から小型チャーターバスに乗り換えて窓からの景色を眺めていたところ、上方から大観覧車が目に入り、その時私はウィーンに来たのだと実感した。

 

そう、1976年の1月に、東京銀座の映画館で見た1949年キャロル・リードが監督した映画「第三の男」のスリリングな場面で息をのんだ、まごう事なきウィーンのプラター公園名物の大観覧車だ。

 

第二次大戦後の混乱期、親友を騙して生き延びようとする大悪党のハリー(オーソン・ウェルズ)、信頼したハリーに裏切られて酒に溺れる売れない作家のホリー(ジョゼフ・コットン)、自分の命を救ってくれたホリーから愛されながらもハリーを忘れられないアンナ(アリダ・ヴァリ)。

 

映画のラスト・シーンは、アンナがホリーの視線を無視して昂然と頭を上げて並木道を歩き去る場面であった。

 

 

 

 

   

そして、私が映画を回想している間に、私たちの乗った小型チャーターバスも同じ並木道を通り抜けた。

82歳の追想 (12) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑫ ドナウ川クルーズで国境を越える

 

私たちツアーツアーメンバーは次の目的地ウィーンに向かうために、各々が宿泊したマリオット・ホテル特製のランチボックスを手に、ホテル近くの船着き場からクルーズ船に乗った。

 

ブダペストの真ん中を流れるドナウ川は、ドイツ・オーストリア・スロヴァキア・ハンガリー・クロチア・セルビア・ルーマニア・ブルガリア・モルドバ・ウクライナの10カ国を経て黒海に流れ込んでいる。

 

周囲を海に囲まれた島国に住む私にとって国境を越えるのは大仕事だ。先ず、旅客機に乗る為に近くはない国際空港に足を運び、煩雑な出入国手続きの為に、長蛇の列に並ばなければならない。

 

ところが、ドナウ川クルーズでの海外旅行では、出発地ブダペストの宿泊ホテルから徒歩数分の船着き場での出国手続き、到着地ウィーンでも船着場での入国手続きは実に簡単であった。

 

それだけではない。今回のドイツ、チェコ、ハンガリー、オーストリア訪問の大半が陸続きのため、移動はドナウ川経由を除いて小型チャーターバスであったが、マルチ・ビザの効力もあったのか、出入国手続きの簡易さはカルチャー・ショックであった。

 

クルーズ船上では、ドナウ川の豊かな流れと両岸の素晴らしい景観を楽しみながら、ツアーメンバーは小グループに分かれて寛いだひとときを過ごしていた。

 

そんな中で、私は年上の女性2人と打ち解けた会話を楽しんでいたが、定年退職した夫と一緒に参加した女性から「夫が定年後に半年ほど深刻な鬱病にかかって大変だった」と聞かされて、9年後に定年を迎える私も鬱病になるのであろうかと心配したことが忘れられない。

 

      (隅田川クルーズ船のスケッチ)

 

 

82歳の追想 (11) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑪ ハンガリー国立歌劇場で「カルメン」を

 

今回のハンガリー訪問では、オプショナルにオペラ「カルメン」の観劇が組み込まれており、オペラにそれほど馴染んでいない私でも「カルメン」は理解できるので、ツアーメンバーと共にハンガリー国立歌劇場に足を運んだ。

 

スペインを舞台にした「カルメン」は、ジブシー女のカルメンと、竜騎隊伍長のドン・ホセとの恋愛悲劇を描いた物語だが、曲芸や踊りや音楽などで移動生活を続けるジプシーはスペインやハンガリーなどに土着していて、むしろ、ジブシーの本場で独特の空気も感じられて良かった。

 

正直に言って、私は、この時まで、ハンガリーでこれほどオペラが普及していて、さらに、これほど華麗な国立歌劇場まで設営していることを知らなかった。

 

そして、休憩時間に、一階ロビーでツアーメンバーとワインを啜りながら周囲を見廻して、着飾った男女がグラスを片手に語り合う姿をながめて、王朝時代のサロンの名残を感じたのだった。

 

そして、あれから30年を経た2026年の6月に

 

6月28日には 大宮ソニックシティ 大ホール

6月30日には 東京国際フォーラム ホールA

 

で、ハンガリー国立歌劇場がモーツアルトの「魔笛」を公演するという、華やかな新聞広告を目にすることになるとは。しかも、大宮ソニックシティでの公演では、公演2ヶ月前には、既に残席僅少になるほど日本で人気があったとは。

 

(2026年4月30日朝日新聞夕刊から)

82歳の追想 (10) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑩ 敗戦からの復興 ブダペストと東京

「ドナウの真珠」と呼ばれるブダペストは、1873年にドナウ川のブダ側とペスト側が合併してハンガリーの首都として誕生した。

 

そして、1896年の世界で2番目の地下鉄の開通により、ブダペストは、歴史と近代性を併せ持つヨーロッパでも指折りの美しい産業と交易の都市となった。

 

ところが、そのブダペストは、第二次世界大戦でソビエト連邦によるブダペスト包囲戦と、ドイツ軍の攻撃による全ての橋の破壊などで街も人々も壊滅的な打撃を受けた。

 

しかし、その後のブダペストは、1964年にエリザベート橋の再建を果たし、1970年代初期にはブダペスト地下鉄の2号線、さらに1982年には3号線を開業させて1980年代後半に戦時中の被害を全て修復させたのであった。

 

それだけではなく、ブダペストは、1987年のブダ城とドナウ川沿いの建物を含めたユネスコの世界遺産の登録、2002年のブダペスト地下鉄や英雄広場、都市公園 を含めたアンドラーシ通りの世界遺産の登録リストへの追加と快挙を成し遂げた。

 

以上は、これを書くに当たってwebで検索をして、私が初めて知ったブダペストの戦後史の一部である。

 

そうか、あの美しい王宮も、鎖橋やエリザベート橋も、洗練されたアンドラーシ通りの街並みも、第二次大戦で破壊された後にあのように見事に復元されたのか。

 

このことは、私に、ブダペストの人々の自国への愛情と暮らす場所への愛着心の深さを改めて感じさせてくれた。

 

翻って、第二次世界大戦の米軍の大空襲により廃墟と化した東京の復興は、無計画・無秩序に進められたようだが、今でも都市形成においてその傾向は変わらない。

 

しかし、東京の片隅に住む私にとって、計画性や秩序を伴わない都市開発によって造られた都市は、多少美しさに欠けるものの、勢いが感じられてそれほど悪くない。

 

 

82歳の追想 (9) バロック街道とドナウ川周遊旅行 1995 ⑨ エレガントにライトアップされた「ブダペストの鎖橋」

 

ハンガリーの首都ブダペストを象徴する「鎖橋」は、ドナウ川のブダ側とペスト側を初めて永久に繋ぐ橋として19世紀半ばに完成した。

 

橋の全長は375m、幅は16m、橋の両岸近くに建つ一対のアーチ状の主塔にかけられたロープに相当する構造が、自転車の鎖を思わせる事から「鎖橋」と呼ばれるようになった。

 

さらに私たちの眼を楽しませてくれたのは、橋の袂に配置された4頭の巨大なライオン像であった。

 

そして、私たちのブダペストでの宿泊先は、ドナウ河畔に建つマリオット・ホテルであったが、まさか、私の部屋の窓から、ライトアップされた鎖橋が間近に見えるとは予想もしていなかったので、私は部屋に入るやいなやバルコニーに立ち尽くして飽きることなく鎖橋を眺めたのだった。

 

また、鎖橋のライトアップは、東京タワーのように全てを煌々と照らのではなく、アーチ状の主塔にかけられたロープに間隔を置いて球状のライトを真珠の首飾りのようにつないで闇の中にそれをくっきりと浮かび上がらせるという、光と闇のコントラストで鎖橋のエレガントさを巧みに活かした詩情溢れる美しさだった。

 

聞くところによると、このライトアップはオランダのフィリップス社が手掛けたとのこと。

 

今回の旅では、日本在住のハンガリー出身の男性がツアーコンダクターであった事も幸いして、彼の計らいで、翌日の夜、私たちツアー・メンバーは三台のタクシーに分乗して、ライトアップされた鎖橋を走り抜け、その後で近くのレストランでビールで乾杯しながら感激を分かち合ったのだった。