後白河院と寺社勢力(93)遁世僧(14)大勧進重源(11)武家政

 東大寺大勧進の重源に期待された役割は、平重衡の焼討で灰燼に帰した大仏と大仏殿を聖武天皇によって創建された当時の姿に復元する事であった。

 焼け落ちた大仏の再鋳造は、幸いにも博多港に停泊していた陳和卿率いる7人の宋人鋳物師の革新的な技巧により何とか完成に漕ぎ付けることが出来たが、跡形もなく失われた大仏殿となると、天平勝宝4年(753)創建時の正面約73m、側面約37mの規模を持つ巨大建築の復元は、当時の番匠(※)の手に負えるものではなく、さすがの重源も伊勢大神宮に4度にわたって「東大寺大仏殿造営成就」を祈願している。

 さて、ここで、政治の舞台に目を転じれば、平家滅亡により「これで戦乱は終結し、これからは文を以って治める文治の始まりである」との万感の思いをこめて、文治元年(1185)8月28日に大仏開眼供養を盛大に催してから3ヶ月もたたぬ間に、後白河院源頼朝の間では際どい駆引きが展開されていた。

 事の発端は後白河院が平家一門を壇の浦に沈めた源義経を重用した事が源頼朝の怒りを買い、鎌倉入りを拒否された義経後白河院に強要して「源頼朝追討宣旨」を引き出したことにあった。

 「源頼朝追討宣旨」という錦の御旗を掲げたものの兵が集まらず義経は西方に退却を余儀なくされたのだが、方やこの宣旨に激怒した頼朝は北条時政を千騎の兵と共に上洛させ「義経捜索の為にも諸国に守護・地頭の設置が必要」と強い姿勢で後白河院に迫り、遂に11月に守護・地頭設置を認めさせて鎌倉幕府政権の一歩を踏み出したのである。

 しかし頼朝をして「日本第一の天狗」と呼ばせた後白河院は、頼朝が喉から手の出るほど欲しがった征夷大将軍の地位を眼の黒い内は与えないだけの老獪さと意地は堅持していた。

 かくてその後の重源は、東大寺復興を完遂するために朝廷だけでなく鎌倉幕府をも動かす力を発揮する事になる。



                  

(左は「伝源頼朝像 神護寺所蔵」『頼朝の天下草創』 山本幸司 講談社より、 右は「後白河法皇像 京都・妙法院蔵」『院政期の絵画』図録より)。


(※)番匠(ばんしょう):古代、交代で都に上り木工(もく)寮で労務に服した木工、あるいは大工。


参考文献:『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館

      『頼朝の天下草創』 山本幸司 講談社