後白河院と寺社勢力(91)遁世僧(12)大勧進重源(9)結縁結集

 東大寺大仏は王法仏法の象徴だけではなく庶民信仰の拠所でもあったことから、「一粒半銭、寸鉄尺木の施し」による再興を目指す東大寺勧進の成否は、ひとえに権力者から庶民はいうまでもなく、多様な宗派の仏教者をも含む人々の結縁(※)を一つにまとめる重源の信仰心にかかっていた。

 重源が真言密教徒として13歳で醍醐寺で出家しその後は諸国の深山を駆け巡って山林修行に励んだことは既に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)が、その山中での修行の場で写経の儀式を取り入れた「如法経」と呼ばれる供養会にも勧進聖として度々結縁していた。

 「如法経」を初めに採用したのは延暦寺であったが、11世紀末から12世紀半ばにかけて貴賎を問わず諸国に広まり、やがて民間布教者である聖が法華経の経典を盛んに書写供養するようになってから重源も積極的に参加していたのである。

 因みに「法然上人絵伝」には後白河院が並居る高僧をさしおいて民間布教者の法然上人を先達にして盛大な「如法経」供養会を催した様が描かれている。


  

後白河院の如法経供養に先達を勤める法然 『法然上人絵伝 上』より )


 当時は民間布教者は「聖」と称したが、そのなかでも法華経信仰を身上とする聖は「持経者」と呼ばれ重源もその一人であった。

 ところで、五味文彦著『大仏再建』には、『梁塵秘抄』に「大峰行ふ聖こそ、あはれ尊きものはあれ。法華経誦する声はして、確かの正体まだ見えず」と持経者の歌を採取した後白河院が、美しい姉の上西門院ともども自らも持経者であったと、後白河院と重源の絆の深さ推量させる興味深い話を載せている。

しかし重源の信仰はこれだけでは終わらなかった。「入宋三度聖」を自称する重源は、大陸の聖地巡礼で「蓮社」と呼ばれる壮絶な苦行を重ねる熱烈な浄土教信仰の民間仏教者に遭遇した事から「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の影響を強く受け、帰国後は真言密教を基本に据えながらも、霊験を求めて同行衆と共に念仏を唱えながら信濃善光寺から越中国立山加賀国白山を抜ける険しい行程を修行し、承安元年(1171)頃には高野山の専修往生院に新別所を構えて、東大寺大勧進を拝命するまでの10年間をここを拠点に活動していた。

 このような重源の信仰心は「専修念仏以外は棄てるべき」と唱えた法然の「専修念仏」とは大きく異なり、その幅の広さだけ様々な人々の様々な仏に対する結縁を包含して、東大寺大仏再興事業への結集を可能にしたのである。


(重源上人勧進図 富岡鉄斎筆 『東大寺展図録』 朝日新聞社より)

 上図は大正4年5月の大仏殿大修理落慶供養に参加して感激した富岡鉄斎が、重源が一輪車を六両作り七道諸国を勧進してまわった事に思いをはせて描いたとされる。


(※)結縁(けちえん):仏道に入る道を結ぶこと。成仏・得度の因縁を結ぶ事。


参考文献:『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館

     『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ