後白河院と寺社勢力(75)渡海僧(19)道元 5 公胤の専修念仏

 14歳で道元が身を投じた当時の叡山を支配していたのは「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという本覚思想であった。
 
 もし本覚思想が唱える通り衆生に本来仏性が具わっているのであれば、何故出家して厳しい修行に専念する必要があるのかとの強い疑問が15歳の道元を突き動かし、密かに山を降りて訪ねた相手が三井寺の高僧として名をはせた公胤であった。

 しかし何ゆえに三井寺の高僧・公胤なのか。

公胤は三井寺に入って天台・密教を修め、村上源氏の出であったことから北条政子の頼みで公暁を弟子にした事もあるが、後鳥羽院の信望を得て長吏(トップ)を勤めて三井寺の興隆を成し遂げた実力者であったが、建久9年(1198)に法然上人が著した「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」を痛烈に批判する「浄土決疑抄」を書いたものの、後に法然の法門を聞くに及んで深く帰依して専修念仏の唱道者となり、道元が訪ねた時は公職を退き里房で念仏三昧の生活をおくっていた。

 九条兼実の『玉葉』に「顕真遁世久しく、念仏の一門に入るに依って、真言の万行を棄つ」と書かれた顕真も、叡山で顕密を修めて名声を高めたにも拘らず大原に遁世し、文治2年(1186)秋には法然上人を勝林院に招いて諸宗の碩学達と「大原問答」を展開し、それを機に法然に深く帰依して念仏三昧に入るものの、文治6年(1190)には朝廷に推されて天台座主になっている。

 このように、当時は天台を修めた高位高僧であっても、同じ人格の中に天台・密教という旧仏教と、専修念仏という新仏教が同居する事は珍しくなかった。

 であるからこそ、道元は、かつての三井寺の高僧で今は遁世して念仏三昧に暮らす公胤をひそかに訪ねたのである。

 ほとばしる思いで本覚思想への疑問、出家の根拠への問いかけをぶつけた若き道元に対して、公胤はそれに直接答えることはしないで、宋では禅が盛んで、建仁寺には、その宋で禅を修めた栄西がいるよ、と示唆した、と、道元の生い立ちを記した書籍の多くは記しているが、

 そうではないでしょ?と私が思うのは、

一度は痛烈に批判した法然の専修念仏に今や深く傾倒して念仏三昧の暮らしをする公胤であれば、道元に宋禅や栄西を提示する前に、自らが帰依する法然の「専修念仏」を提示しないはずはない。その時道元はどう反応したのか。法然の専修念仏よりも栄西の宋禅に向かうに至った道元のプロセスを知りたいものだと私はしきりに思う。