後白河院と寺社勢力(90)遁世僧(11)大勧進重源(8)利他の土

 重源は大寺院に属する高僧ではなく質素な袈裟衣を纏って念珠(※)する「念仏聖」であり、仏教界では常にアウトサイダーであった。


(重源上人坐像 東大寺俊乗堂 国宝 『別冊太陽 東大寺』より )

 保安2年(1121)下級貴族紀季重(きのすえしげ)の子として生まれた重源は13歳で真言密教霊場として知られる醍醐寺で出家して上醍醐に居住し、青年期から壮年期にかけては諸国の深山を駆巡る山林修行者であった。

 彼が当時の多くの僧と異なっていたのは一箇所に長く留まることなく、信仰心を同じくする同行衆と共に畿内はもとより四国、北陸に至る広い範囲を、修験の聖地を求めて文字通り駆け抜けていたことであり、さらには遠く宋に渡って大陸東岸の天台山の阿育王寺から内陸の五台山など仏教の聖地を巡って幅広い霊験を体験したことである。

 さらには、幅広い庶民から資金を募って造寺・造仏を推し進める一方で、淀川にかかる渡辺橋や長羅橋(ながらばし)、京都の清水橋、近江の瀬田橋などの架橋工事、潮流の激しい明石海峡に臨む寄港地・播磨国の魚住泊や河内国の狭山池の改築工事、山陽道の要道である備前国の船坂山や伊賀国の山道の道路整備など、多額の資金と工人を要する土木事業を勧進活動によって積極的に展開した事も当時の多くの僧とは際立っていた。


 

(重源が改築した河内国狭山池 『土木の絵本 人をたすけ国をつくったお坊さんたち』 全国建設研修センター企画編集 より )

 重源は何故このような勧進による土木工事に積極的に取組んだのであろうか。建仁3年(1203)重源83歳の時に自らを顧みて纏めた『南無阿弥陀仏作善集』によると、「作善(さぜん)」とは善行をなすこと、善行とは「衆生を利益する」こと、そこからは、利他を目的として自らが中心となって大規模土木工事の勧進をすることを通して浄土への往生を願っていた重源の心が読み取れる。


(「南無阿弥陀仏作善集」重文 東京大学史料編纂所 『別冊太陽 東大寺』より ) 


(※)念珠(ねんじゅ):珠(たま)を一つまさぐるごとに仏を念ずること。

参考文献:『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館