2009-01-01から1年間の記事一覧
「受領(※)は倒るる所に土をつかめ」とは受領を語る上で必ず引き合いに出される言葉であるが、次に登場する信濃守藤原陳忠はまさに典型的な受領の体現者であろう。 (※)受領:任国に赴任する国守は前任者から事務書類その他を受継ぐので受領と呼ばれ下級貴…
さて、国守は当時どのような眼で見られていたか。「今は昔」で始まる一千余の説話を集めて平安時代末に編纂された「今昔物語集」(岩波文庫)から幾つか拾ってみた。 最初は、悪徳国守を語る上で必ず引き合いに出されるこの物語から。 「巻第29 本朝付悪行…
先の総選挙では議員の世襲が議論を巻き起こしたが、その余韻も覚めやらぬ二ヶ月ほど前に、サルコジ大統領が息子をデファンス地区開発公社(EPAD)のトップに就任させる意向を示したことに、余りの身びいきに批判が集中しているとの新聞記事を眼にした。私と…
ところで共に五位の父を持ちながら、中宮後宮サロンの花形スターとして天皇・関白を始めとする上流貴族と接することの多かった清少納言と紫式部は中下流貴族の五位をどのようにみていたのであろうか。 まず、清少納言だが、彼女が「枕草子」で言及する五位は…
朧月夜尚侍と通じた為に弘徽殿大后によって都を追われ地方でわび住いを余儀なくされた光源氏の無聊を慰め、何くれとなく経済的な支援をする明石の入道。 播磨守を最後に出家して明石の地に風雅な邸宅を構えて、管弦を愉しみ、念仏三昧に暮らす「前国守」は端…
それでは下級貴族の希望の星「国守」とは一体どのようなポストであったか。 国守は中央の高級貴族から見れば地位は確かに低くいが、県知事・県警本部長・県税務署長・地方裁判所長の機能を一手に集中し、任国においては一国一城の主といってもよい強力な権限…
日本は大宝元年(701)に唐・新羅に倣って律令制を導入したのだが、それは、正一位上から少初位下に至る30階級からなり、その位は、宮廷において天皇に一番近い場所に座る人を一位と定めたものであるが、更にその下にも無位の階層が続き当時8300人…
平安期から中世にかけて、公家と武士に対して互角に対峙した寺社勢力台頭の要因のひとつに、自らの利益を最大限に引き出すために、時には武力を用いて、当時の人々の心に深く根ざした御霊信仰を仕切る立場を最大限に活用した事が挙げられると私は観るのだが…
大津・坂本に広大な社域を有する日吉大社は山王権現とも呼ばれ、平安時代からは比叡山延暦寺(山門)の鎮護神とされていた。 鎌倉時代に山王権現の霊験譚を記したとされる「山王霊験記」には、叡山の山僧や日吉社の神人が日吉山王社の神輿に呪詛した祟りによ…
保元の乱の戦後処理によって反後白河勢力を一掃し、摂関家の弱体化に成功した法体の少納言藤原信西が、政治は二の次で乙前の指導でせっせと今様に励む後白河天皇の名前で推し進めたのが、「保元新制」による寺社の悪僧・神人対策であった。 保元2年(115…
嘉応元年(1169)9月12日、尾張守藤原成親の目代(注1)政友と延暦寺領の比良野の神人との争いが美濃で起こり、神人は延暦寺を介して責任者である藤原成親の配流を訴えでた。 ところが藤原成親といえば後白河院のご寵愛深い美形の近臣、後白河院は詳…
感神院祇園社は10世紀半ばまでは興福寺末寺であった。それを叡山(延暦寺)中興の祖といわれる天台座主良源が、時の権力者で右大臣の藤原師輔の信任を背に、度重なる大火で焼失した堂塔を再建するとともに荘園など寺領を拡大して、祇園社感神院その他を延…
類稀な秀才と謳われ30歳で左大臣に昇進しながら、保元の乱で37歳の短い生涯を終えた悪左府・藤原頼長は、久安3年(1147)の祇園臨時祭での平氏の郎党と祇園社(感神院)所司の小競合いが鳥羽上皇をも悩ます事態に発展した興味深い顛末を日記「台記…
京都の夏の風物として欠かせない豪壮華麗な「祇園祭」は、京に流行った疫病の大流行をきっかけに、災厄の除去を祈る御霊信仰として、祇園の神を祭り神輿を掲げて御旅所を巡る祭礼の「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」として始まった。 下に掲げた絵は後白河…
【わが身五十余年を過ごし、夢のごとし幻のごとし。既に半ばは過ぎにたり。今やよろづをなげ棄てて、往生極楽を望まむと思う。たとひまた、今様をうたふとも、などか蓮台の迎へに与(あず)からざらむ】 (『梁塵秘抄口伝巻十』(宮内庁書陵部本)尾崎左永子…
今や100歳以上の人口が4万人に達し、いよいよ長寿社会になりつつあるわが国において、誰もが望むことは、寝たきりで長い老後を過ごすより、床についても1週間、それが叶わなければせめて半年くらいで、眠るようにあの世にいけたらということではないか…
「法然上人絵伝」は、後白河院が文治4年(1188)8月14日に白河押小路殿(当時の院御所)で修した、『如法経(にょほうきょう)供養』で、延暦寺・園城寺・東大寺・興福寺などの高僧を差しおいて、法然上人が先達を務めた様子を色彩豊かに描いている…
後白河院の皇女式子内親王は法然上人を戒師として出家し「承如法」と呼ばれたことは既に述べたが、それではこの二人はどのような経緯で知り合ったのかがはっきりせず、石丸晶子著「式子内親王伝〜面影びとは法然」でも、信仰心の深い八条院が法然を招請した…
前述の法然の返書について編訳者の石丸晶子氏は著書「式子内親王伝〜面影びとは法然」で次のように述べている。 式子内親王が法然の専従念仏に帰依して久しい年月が経ち、二人はときに往来して語り合う間柄であったが、なんらかの事情で心ならずも疎遠になり…
法然の「正如房」宛の返書が「承如法」の戒名を持つ式子内親王に対して書かれたものと判明した経緯を前回述べたが、一体どのような文面であったかを知る為に、先述の『法然上人絵伝』の詞書釈文と比較して情緒纏綿の趣が強すぎるきらいがあるが、ここに、石…
石丸晶子著「式子内親王伝〜面影びとは法然」によると、 浄土宗の開祖法然は北条政子、九条兼実の正室、熊谷直実への返書など幾つかの消息文を残しているが、その中の言葉使いから見て高貴な女性に対するものであろうと推測される「正如房」宛の返書が一体誰…
・ かきやりてその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ 何ともぞくぞくするほど官能的な歌ではないか。藤原定家は恋歌の名手である。これほど洗練された感性の持ち主が今なお広く膾炙される式子内親王の忍ぶ恋の相手であっても少しもおかしくはない。 …
詩人萩原朔太郎は和泉式部と式子内親王の二人を挙げ「恋愛詩人としての純粋性に於いて、他に比類なく酷似した一対の女性であったが、両者の社会的環境は大いに異なっていた」と述べ、斎院として自由の無い生活をおくった式子について「生涯童貞不犯の生活を…
私は予てから、「源平の争乱期を挟んで30数年に亘って最高権力者でありつづけた男の娘というものは、一体どのような人生を歩むものなのか」について深い興味を抱いていた。そこで、この機会に、後白河院と彼の第三皇女・式子内親王の人生を跡付けてみるこ…
前回に式子内親王の生年に関して諸説紛々ではっきりしないと書いたが、その直後に「国文学 解釈と鑑賞」(至文堂)1999年5月号を取り出して目を通すうちに、確証とも思える内親王の生年に関する記述に遭遇したので、比較の意味で他の説と併せて述べてみ…
鎌倉初期の代表的歌人式子(のりこ)内親王は雅仁親王(後白河院)と藤原成子(しげこ、後の高倉三位)の第三皇女として生まれたが、その時の父は今様好きの鳥羽天皇の第4皇子に過ぎなかった。 雅仁親王の初代の后が第1皇子(二条天皇)を出産後無くなった…
後白河院の第一皇女亮子(りょうし)内親王は以仁王や式子内親王の同母の姉に当り、卜定された伊勢斎宮を同母の好子内親王に交替した後は、安徳天皇の准母及び後鳥羽天皇の国母として皇后に叙せられ、皇后を辞した文治3年(1187)に女院号を賜り殷富門…
鳥羽院と美福門院の間に生まれた八条院翮子内親王は後白河院の第一皇子守仁親王と第二皇子以仁王を手元で養育していたが、守仁親王が二条天皇として践祚するに当たり准母となり、初めて后位を経ずに女院号を宣下されて八条院と称した。 八条院は父・母から莫…
後白河院の異腹の妹・八条院翮子(あきこ)内親王は、美福門院を母として鳥羽天皇の第五皇女として生まれた。彼女は夭折した近衛天皇の後継女帝にとも考えられたほど鳥羽法皇から寵愛され、両親亡き後は二人が残した広大な荘園と近臣の大半を相続し、時の政…
後白河院と母を同じくする上西門院門・統子(むねこ)内親王は鳥羽天皇第二皇女で母は待賢門院翮子。初名は恂子で後に統子と改名した。 彼女の母親譲りの美貌については、当時の皇宮の宮太夫(こうぐうのみやのだいぶ)源師時が女房に召されて参上し、皇女恂…