後白河院と寺社勢力(96)遁世僧(17)大勧進重源(14)武者の

  文治3年(1187)3月1日付「重源申し上げ候」で始まる重源の朝廷への訴状は、人夫の食料として保管していた米86石を横領する、周防人を集めて城郭を構える、無断で私領の杣を作る、材木引き人夫集めに同意しないばかりか山野で狩猟をして重源の活動を妨害するなど、地頭の狼藉の数々を挙げて強く糾弾し朝廷の検断を要求していた。
 
 さらにこの訴状には、保(※1)の地頭である筑前冠者家重が年貢用の米40石を官庫から無断押領した事、蔵人所の衆が久賀・日前・由良などの地頭と称して官庫を開いて済物(※2)を押領したことなど、武士の名前と具体的な違法行為を列記した在庁官人による訴状も添付されていた。 

 このように、重源が知行として赴任した周防国では幕府から派遣された地頭の狼藉が目に余り重源や在庁官人を煩わせていたのである。上記の訴状は後白河院から鎌倉に送られたが、幕府は既にこの状況を憂慮して周防国地頭に材木引きに精勤するよう厳命すると共に、源頼朝の腹心・佐々木高綱周防国に派遣して地頭の指揮に当たらせる決定を下していた。

 周防国入りした佐々木高綱は重源の信仰心に甚く心を動かされようで、派遣されて2ヵ月後には杣から東大寺棟木に適した長さ13丈の巨財を伐採できたことを幕府に報告し、その2年後の文治5年(1189)5月にも重源の要望に応えて柱15本を佐波川から摂津に運び、遠からず他の15本も杣出しする予定であると幕府に報告して、徳地杣から東大寺まで数百キロに及ぶ材木運送の成功に大きな力を発揮している。

 このような佐々木高綱の数々の貢献を源頼朝は「軍忠もさることながら信仰上の善因を積んだ事になろう」と賞賛したが、その高綱は大仏殿供養会が行われた建久6年(1195)に重源に帰依して高野山で出家し西入と号した。

 宇治川の合戦で梶原景季との先陣争いに勝つなど数々の勲功を立て、源頼朝から高い信頼を得た佐々木高綱の出家は例外ではなかった。歌舞伎「熊谷陣屋」でも知られる平家との戦いで勲功目覚しかった熊谷直実、直実と同じく武蔵国御家人(※3)で大仏殿供養に上洛した源頼朝の供奉に加わった津戸三郎の二人は共に法然に帰依して出家を果たしている。


熊谷直実法名:蓮生)の往生の場面 『法然上人絵伝 中』より)

 凋落著しい公卿が無常を嘆いて出家するだけでなく、台頭著しい武者の時代にあって鎌倉幕府の重鎮と看做された武士が次々に出家するというのがこの時代の大きな特徴でもあった。

 武者とは殺人を業とする人間であり、勲功を上げ出世するといっても所詮は「殺して何ぼ」の世界である。心ある武者の中にはその罪業の深さにおののく者も少なくなかったのではないか。

 今で云う「仕事のやりがい」あるいは「生きがい」を引き合いに出すのは卑近過ぎるかもしれないが、佐々木高綱は重源と共に周防国東大寺復興事業に汗を流してゆくうちに、おのれの家業の罪の深さを自覚させられつつも、魂が浄化され、心の平安を得たのではなかったか。


(※1)保(ほ):平安時代以後の国衙領における所領単位の称。

(※2)済物(せいもつ):平安、鎌倉時代、租税・年貢などの貢納物。

(※3)御家人(ごけにん):鎌倉・室町幕府の将軍譜代の武士。


 参考文献:『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ

      『国文学〜現代にとっての中世』昭和48年9月号 学燈社