後白河院と寺社勢力(83)遁世僧(4)大勧進重源(1)南都焼討

治承4年(1180)は源平争乱が一気に燃え上がった年だった。

 前年の11月20日に平清盛後白河院を鳥羽殿に幽閉して院政を停止させ、高倉天皇に譲位を迫って外孫安徳を即位させ、平氏政権を確立する為に高倉上皇院政を開始させた事は、清盛にとってまさに自らの寿命を縮める事態を惹き起こすことになった。

 先ず、即位の前から袈裟を纏って声明に打ちこみ(今様も含めて何しろ声が自慢)、度を越した熊野詣だけでなく、即位後は高野山東大寺延暦寺を盛んに行幸して仏門修行に精進し、43歳で出家して『行真』の法名を持つ後白河院を幽閉した事で南都北嶺を敵に廻すことになり、その脅威から逃れる為に6月20日に福原遷都を強行せざるを得なくなった。

 次に、後白河院の皇子でありながら高倉上皇の母・建春門院の嫉妬と警戒心から遂に親王宣下を得られなかった以仁王が、安徳即位に反対して発した「平氏追討の令旨」が諸国の源氏を奮い立たせ、8月17日の源頼朝の伊豆の挙兵、9月7日の源(木曾)義仲の挙兵を誘引し、そこから頼朝の鎌倉入り、富士川の合戦へと事態を急迫し、さしも豪腕で知られた清盛が12月18日に福原遷都を終わらせて京に舞い戻る醜態を見せている。

 しかしこの危機感は、近年増長の度を激しくして益々手強い存在となった南都の大衆を叩き潰すには今しかないと逆に清盛を駆り立て、最愛の息子・平重衡に南都制圧を命じることになる。

 かくて年も押詰った12月28日、南都の大衆に脅威を与える為に平重衡に率いられた平氏軍の放った火が折からの強風に煽られて南都は火の海となり、興福寺東大寺が灰燼に帰したのである。


(※1)声明(しょうみょう):仏教の儀式・法要で僧の唱える声楽の総称。解釈には狭義と広義があるがここでは割愛。