2011-08-01から1ヶ月間の記事一覧

後白河院と寺社勢力(86)遁世僧(7)大勧進重源(4)螺髪鋳り

養和元年(1181)8月に『造東大寺知識詔書』発令と同時に造東大寺大勧進を拝命した重源は、朝廷が予め定めていた10月6日の「大仏補修始」の日程に添って大仏の螺髪(らほつ)鋳りから着手するために、10月9日には重源自ら先頭に立って洛中の貴賎…

後白河院と寺社勢力(85)遁世僧(6)大勧進重源(3)法皇の勧進

平清盛の南都攻めは焼討ちだけでは収まらなかった。翌年の養和元年(1181)1月4日に東大寺・興福寺の僧の公請(※)停止、荘園没収、僧綱以下の解任と苛烈を究めた。 鎮護国家の象徴たる東大寺と摂関家の氏寺・興福寺へのこのような所業は仏法を破戒す…

後白河院と寺社勢力(84)遁世僧(5)大勧進重源(2)61歳から

押し詰まった12月28日の平重衡による南都焼き討ちから年が明けた養和元年(1181)(※1)は、松の内もとれない1月14日の高倉上皇崩御から始まった。後白河院と平清盛との唯一の細い絆であった上皇は、病弱な上に父と義父との軋轢による緊張と福原…

後白河院と寺社勢力(83)遁世僧(4)大勧進重源(1)南都焼討

治承4年(1180)は源平争乱が一気に燃え上がった年だった。 前年の11月20日に平清盛が後白河院を鳥羽殿に幽閉して院政を停止させ、高倉天皇に譲位を迫って外孫安徳を即位させ、平氏政権を確立する為に高倉上皇に院政を開始させた事は、清盛にとって…