後白河院と寺社勢力(89)遁世僧(10)大勧進重源(7)同行衆

 大仏鋳造に本格的に着手した寿永元年(1182)2月、重源は「大仏の首を鋳る資材と費用は大略【知識物】による」と自らが先頭に立つ勧進活動によって大仏鋳造を賄う資材と資金をほぼ調達できる見通しを述べている。

 しかるに、寿永2年(1183)4月には平氏木曽義仲追討軍を北陸道に派兵し、それから間もない5月にはその平氏軍が越中倶利伽羅峠で義仲軍に大敗し、追い詰められた彼らは庶民への苛烈な兵糧米徴収を強行し、幅広い民から「一粒半銭」「寸鉄尺木」の寄進(勧進)を募る重源の勧進活動とあちこちで大騒動を展開することになる。

 当の庶民にとっては、鎮護国家の象徴とも言うべき東大寺興福寺を灰燼に帰してまで一族の繁栄を追い求める平氏の勝利よりも、僅かではあっても貴重な私財を大仏修復に寄進する行動を通じて仏道に結縁し「現世安穏、極楽浄土」を願うのは当然の成り行きで、そんな庶民に深く分け入り、積極的な勧進活動を展開していたのは重源から同行(どうぎょう)の名を与えられた勧進聖の集団であった。

 『東大寺造立供養記』によれば、寿永2年(1183)4月に大仏の首を鋳造する頃には50余人の勧進聖(同行衆)と鋳物師などの技術者が心を合わせて重源の活動を支えたとされているが、同行衆についての詳しい実態は明らかではなかった。

 しかるにそれから800年後の平成元年(1987)7月、美術院国宝修理所の手により東大寺南大門の仁王像吽形像の解体修理が行われた際、像の胸部の根幹材に打ち止める形で発見された『宝篋印陀羅尼経(ほうきょういんだらにきょう)』によって重源を支えた同行衆の存在が甦ったのである。


  

(「宝篋印陀羅尼経」 (国宝南大門仁王尊造修理記念 東大寺展図録)より)

 「宝篋印陀羅尼経」は奥書に建仁3年(1203)8月8日の日付と筆者恵阿弥陀仏の署名が墨書されており、この頃東大寺に止宿していた周防別所の維那僧・恵阿弥陀仏が能筆を買われ、平安時代に入唐僧が請来して漢訳された「宝篋印陀羅尼経」を南大門で書写し、同じ筆で結縁交名(けちえんきょうみょう)を書写したものと思われ、ここからは、仁王像を天災から守って後世に伝えることを祈った重源の願いと共に、東大寺復興に多大な貢献した人々をも後世に伝えようとした重源の強い思いも読み取れる。

 重源が寿永2年(1183)頃から自らを『南無阿弥陀仏』と称し、弟子たちにも浄土教に帰依するものとして『阿弥号』を授与して彼らを『同行』と称した事は広く知られていた。これら同行衆こそ源平争乱と飢饉によって荒廃した状況下に重源を支えた勧進聖たちであり、上記の結縁交名にも140余人の阿弥号をもつ同行衆がみられ、これは結縁交名全体の70%を占めている。

 蛇足ながら名前から見る限り「宝篋印陀羅尼経」の筆者・恵阿弥陀仏も同行衆の一人であり、さらには代表的な鎌倉仏師で、自らの作品に「安阿弥陀仏」と銘記して後世に「安阿弥様式」と呼ばれる作風を確立した快慶が同行衆の一人であったことは既に述べた通りである。(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101221)。


  

東大寺に安置されている快慶作「地蔵菩薩立像)と「阿弥陀如来立像」(別冊太陽  日本のこころ172 東大寺)より)