後白河院と寺社勢力(88)遁世僧(9)大勧進重源(6)法皇の大仏

 元暦2年(1185)3月24日、数え年8歳の安徳天皇三種の神器を擁した平氏は壇の浦の海に沈み、7月9日正午には大地震畿内を襲った。

 鴨長明は「そのさまは、よのつねならず。山は崩れて河を埋め、海は傾いて陸地を浸す。土は裂けて水が湧き出、巌は割れ谷にまろび入る。渚を漕ぐ舟は波に漂い・・・・都の内外のいたるところ堂舎・塔廟(一切の建物)一つとして全からず。・・・地の動き、家のやぶるる音、雷(いかづち)に異ならず。家のうちにおれば、忽ちに押しつぶされ、走り出づれば、地割れ裂く・・・」と地震のさまを描写し、余震は3ヶ月以上も続いた。

 このような天変地異の最中、朝廷は8月を以って「文治」と改元し、直後の8月28日に大仏開眼供養を強行した。

 下図は東大寺正倉院に納められている天平筆で、軸に「文治元年8月28日 開眼 法皇用之」と墨書されている事から、東大寺大仏開眼供養において後白河院手ずからこの筆を用いて開眼された事を示している。


   
 
(『東大寺展図録』より)

 その日後白河院は余震と降りしきる大雨の中、近臣の制止を振り切って、露天に仮設された7段の階段を登り、前日に正倉院より取り出させていた天平の筆と墨を用いて自らの手で大仏の開眼を行ったのである。

 大仏開眼後白河院の御手でと申請したのは重源であったが、式次第を作った左大臣藤原経宗天平勝宝(※1)の開眼作法に従うとして拒否したものの、重源の意を受け止めた後白河院がそれを押し切って実現したのであるが、ここには院と重源の大仏再興にかける並々ならない意気込みが窺がえる。

 その、開眼供養の対象になった大仏はといえば、躰全体は鋳られてはいるが鍍金には到らず、荘厳(※2)からもほど遠く、まことに中途半端な出来上がりであったにもかかわらず、南都7大寺院から千人余りの僧が呼ばれ、「洛中の緇素(※3)貴賎の全てが南都に集まり」と九条兼実は『玉葉』に、「諸国より参詣の輩、寺中に満ち、その隙なし」と『山槐記』が記すように、「知識の詔」の勧進に「一粒半銭」「寸鉄尺木」を寄進した十数万人の大群衆が、大仏を一目見ようと都鄙から集い熱狂の中で開眼供養は営まれた。

 像高16メートルの大仏の眼の位置が地上からどれくらいの高さになるのか、下図の「大仏さまのお身拭い」の写真で想像する他ないが、西海に沈んだ安徳天皇と並立させた在位3年の6歳の後鳥羽天皇を残して後白河院の身にもしものことがあってはと、必死に制止した近臣の心情は痛いほどよくわかる。


(『別冊太陽 日本のこころー172 東大寺』より)

 が、しかし、「とめてくれるな、お前たち、男、後白河やらねばならぬ」と、敢えて身の危険を顧みず大仏開眼を自ら押切った後白河院の真情は、

 平家滅亡により「これで戦乱は終結し、これからは文を以って治める文治の始まりである」と人々にしらしめ、旱魃・飢饉・大地震と相次ぐ天変地異の中を生死の境で生きる人々に向かって、「現世安穏・後世菩提」を願って大仏への結縁を呼びかけるには、自らの手で大仏開眼をするしかないと思うに到ったのではと推測する。


(※1)天平勝宝(てんびょうしょうほう):奈良時代孝謙天皇朝の元号(749年7月〜757年8月18日)

(※2)荘厳(しょうごん):仏像。仏堂を天蓋・幢幡(どうばん)・瓔珞(ようらく)その他の仏具・法具などで飾ること。

(※3)緇素(しそ):緇は黒、素は白を意味し、僧俗の事。


参考文献は以下の通り。

東大寺展図録』 朝日新聞社

『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ