後白河院と寺社勢力(84)遁世僧(5)大勧進重源(2)61歳から

 押し詰まった12月28日の平重衡による南都焼き討ちから年が明けた養和元年(1181)(※1)は、松の内もとれない1月14日の高倉上皇崩御から始まった。後白河院平清盛との唯一の細い絆であった上皇は、病弱な上に父と義父との軋轢による緊張と福原遷都の強行に身心を消耗させて力尽きたのであった。
 
 ここに至って清盛としては、幼帝安徳の存立基盤固めのためにも後白河院院政再開を請うしかなく、自ら強行した後白河院の幽閉、安徳即位が予想もしなかった反平氏の機運を高め、その焦りから起こした失態が清盛自身の身心を損ね、わずか4歳の安徳帝を反平氏網のただ中に残さざるを得ない無念さの中で閏(※2)2月4日に63歳で病死した。

 平清盛が熱病で悶え死にする頃御所で朗々と今様を謳っていたとされる後白河院にとっても、孫とはいえ自らの与り知らぬ状況下で即位した、既に見切った平氏の血を引く幼帝を抱えての王権維持は容易ならざるものであったろう。



               

(左図 左が後白河院 『図版天子摂関御影』より)  (右図は平清盛太政大臣) 『図版公家列影図』より)  


その頃に東大寺に参詣した重源は、あまりにも激しい損傷にはらはらと涙を流している。

 さて、それでは、当時の民はどのような状態におかれていたかといえば、京は治承元年(1177)4月の太郎焼亡、翌年の治承2年(1178)4月の次郎焼亡と呼ばれる大火に見舞われ、そこに治承4年(1180)の辻風が襲い、さらにダメ押しの養和の飢饉と内乱が加わり、人々の暮らしは悲惨そのものであった。

 当時の様子を鴨長明は『方丈記』で【二年が間、世の中飢渇して、あさましきこと侍りき。ある時は春夏日照り、ある時は秋冬大風大火など、よからぬ事どもうち続きて、五穀悉く実らず、空しく春耕し、夏植える営みのみありて、秋刈り冬収穫するものもない。これによりて国々の民、ある者は地を捨てて境を出で、ある者は家を忘れて山に住む】と描写し、

 他方、後白河院の側近で院の発する院宣のほとんどを草案した吉田(藤原)経房は、内裏から三条烏丸を過ぎようとした時の当時の状況を『吉記』に【近日、死骸殆ど道路に満つというべきか】と記している。

 そんな中で朝廷は「知識詔書(ちしきのみことのりしょ)」を下し、造東大寺長官に後白河院の近臣の藤原行隆を任命した。
 
 因みに「知識詔書」の知識とは結縁(※3)の為に寺に私財を寄進する事、あるいは寄進する人を意味する仏教用語で、詔書では東大寺の再興は、貴賤を問わず幅広い知識の「一粒半銭」「寸鉄尺木」の寄進(勧進)によってなされ、寄進をした人たちは結縁によって悟りを得る因縁を結ぶ事ができる」と呼びかけ、「後白河法皇が広く天下に勧進して再興にあたる」と述べている。

 そして8月には勅命により61歳の重源が東大寺大勧進職に任命され、造東大寺長官の藤原行隆と共に後白河院の手足となって、荒廃した国土に立ち尽くす疲弊した人々に勧進を呼びかけ、東大寺復興という困難な社会事業に取り組むことになった。

(※1)養和元年:治承5年であったが、天変地変が相次ぎ7月14日に養和と改元

(※2)閏(うるう):太陰暦で12ヶ月のほかに加えた月。

(※3)結縁(けちえん):仏教用語。仏門に入る縁を結ぶこと。成仏・得道の因縁を結ぶこと。


参考資料は『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ