後白河院と寺社勢力(100)遁世僧(21)大勧進重源(18)発心

 鴨長明の『発心集』に東大寺大仏開眼供養会に詣でて発心し念仏の功を積み極楽往生を遂げた男の話が載っている。因みにここでの「発心」とは菩提心を起こすことを意味する。

 この男は尾張の裕福な国衙役人の23歳になる嫡男で、両親と共に文治元年(1185)の東大寺大仏開眼供養会に参詣して悟りを求めて仏道に入る事を思い立つが、両親の強い反対を畏れてその場は帰郷し、日を改めて誰にも行く先を告げずに一人で南都に上り重源に出家の望みを告げる。

 重源がこの男の発意を訝ったのは、豊かな家柄の出で妻子にも恵まれ何の苦労もなさそうな若い男が何故そのような心境に至ったか合点がゆかなかったからで、その疑問に対して男は「家族・財産共に恵まれ今は何の不満もないが、明け暮れ無常を感じ何をしても空しく、ただ世間を捨てて念仏を唱えひたすら極楽往生を望むようになった」と応じて重源を感涙させる。

 それでは髪をおろしましようと重源が烏帽子をとらせると、既に髻(もとどり)は切られ、はらはらと髪が落ちかかり「道中で心変わりをしないように家を出る時に切ってきましたと」と男は決意の堅さを示した。

 落髪した若い男はその時から重源の弟子の聖に交じって昼はひと時も休むことなく瓦を運び、石を持ち、材木を引き、夜はひたすら念仏を唱えて西方に向かって座ったまま夜を明かし、彼の行く先を突き止めた父母から様々な品物が届けられてもすべて仲間に寄進して自ら所有することもなかった。

 そんな彼を3年近く見つめてきた重源はさらなる修行を積む為にと彼に「専修往生院」へ移ることを進める。そこは、高野山の東南部に設けられた念仏聖の修行地で、日夜念仏の功を積んで極楽往生を願う者たちの修行の場として重源が承安元年(1171)頃に建てたもので食堂や湯屋を備え、重源指導下の念仏集団が共同生活を送っていた。

 『発心集』は、この若い男は「専修往生院」で24人の念仏衆徒と共に暮らし、着る物や食べる物に一切関心を示さず、ただただ不断念仏(※)に明け暮れて、その7年後には西方に向かって念仏を唱えながら座したま極楽往生を遂げたと述べている。

 この話から思い起こすのは「俗時より心を仏道に入れ、家富み、年若く、心に愁へ無きに、遂に以て遁世す」と悪左府藤原頼長をして『台記』に書かせた西行の出家遁世である。

 西行平将門を討ち取った藤原秀郷(俵藤太)の血を引く武門の佐藤康清の息子義清(のりきよ)であった事はすでに述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20111021)。

 金持で、若く、見た目も良く、鳥羽院北面の武士というエリートであった23歳の彼の突然の出家遁世は周囲を大いに驚かせたようだが、律令国家の崩壊に伴い荘園に依存せざるを得なくなった貴族社会の腐敗と、何事も前例を良しとしする旧態依然とした官僚組織による閉塞感、その間隙を縫って目覚しく台頭し新たな権力者となりつつある武士階級。

 西行と共に鳥羽院の北面を勤めていたのは同年齢の平清盛であった。白河・鳥羽両上皇から特別に目をかけられ目覚しい昇進を駆け上る平忠盛の長子として、既に新たな権力者の相貌を備えつつあった清盛を間近く眺めていたことも西行の無常感を掻き立てたのではないかと私は深読みしているのだが。

 西行の出家遁世から72年後の建暦2年(1212)、内大臣源(土御門)通親を父とし、前摂政関白藤原基房(松殿)の娘・伊子(いし)を母として生まれた道元が13歳で出家しその後に遁世をしている(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110418)。

そういえば重源も下級貴族の息子として生まれ13歳で出家したのであった。

 家豊かで当面は殊更の問題がなくても、先の長い若者は自分の行く末を考える上で、自らが属する階層が衰亡の側にあるのか隆盛の側にあるのか思い巡らさざるを得ない。

 他方で隆盛の側に属しても、権力者源頼朝の覚えが目出度かった佐々木高綱のように、頼朝の命によって周防に下り、御家人を指揮しながら自らも汗を流して東大寺大仏殿再興のために重源に協力していくうちに、重源の信仰心だけでなく生き方にも影響されて大仏殿供養会の後に高野山で出家する者もいる。佐々木高綱は権力者の側近である誇りや喜びよりも、殺傷を生業とする空しさ、あるいは頼朝の後継を巡る幕府内の抗争に無常を感じたのであろうか。

 上記のような身分のある者だけではない。源平争乱による荒廃した国土、飢饉、度々の地震旱魃の中で常に死と隣りあわせで生きざるを得ない庶民の中に生まれた無常感が仏道への結縁を求めて東大寺復興への大きなうねりをもたらすことを、宋から帰国後、同行衆と共に霊験を求めて念仏を唱えながら諸国を行脚するなかで重源が肌で感じたことであった。

(※)不断念仏:昼夜間断なく念仏を唱えること。

参考文献: 『方丈記・発心集』 三木紀人 校注 新潮日本古典集成 新潮社

       『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯 編 吉川弘文館

余談ではあるが、同い年の同僚だった西行平清盛。方や73歳で望みどおり桜の花の下で入滅し、方や討ち滅ぼした数々の政敵の怨霊に怯えつつ64歳で熱病により悶え死ぬ。世間を捨てて出家遁世するというのは精神的・肉体的にも救われる生き方なのだとつくづく思う。