後白河院と寺社勢力(87)遁世僧(8)大勧進重源(5)日・宋鋳物

 東大寺大仏の本格的な修造は寿永2年(1183)2月11日の右手鋳造から始まり、4月19日から頭部鋳造、5月19日から面部鋳造、翌寿永3年(1184)正月から左手鋳造、6月の竣工へと進行するのだが、東大寺焼討から三ヵ月後の 養和元年(1181)3月18日に後白河院の勅使として鋳物師十余人と共に毀損状況を検分した藤原行隆(後の造東大寺長官)の報告は「大仏の修復は国内鋳物師の技術では不可能」であった。

 この事について、本格修造直前の正月24日に九条兼実邸に招かれた重源は「大仏のような巨大な仏像の修造成就は偏に唐の鋳物師の工夫にかかっている」と宋人鋳物師・陳和卿(ちんなけい)が率いる技術者集団を起用する意向を示し兼実を安堵させている。


(上図は像高16mの東大寺大仏 『日本の美術 東大寺の大仏』 平凡社版より)

 陳和卿については(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101120)で既に述べたが、
重源が大仏修造で頭を悩ませていた時、たまたま難破により博多に余儀なく足止めされていた陳和卿の消息を知った重源が急遽彼を南都に招き、大仏修復の画期的な工夫などを聞かされて彼と舎弟の陳仏寿を含む7人の技術者の起用を決めたのである。

 さて、その、陳和卿だが、彼は大仏の鋳造だけでなく鋳造装置や鋳造時の大仏を支える木組まで作り、さらに、大仏殿の建立に際しては、用材の調達から建築の新技術導入に到るまで幅広い知識と技術を発揮して、東大寺復興事業に大きな役割を果たしている。

 そして、陳和卿を支える日本側の技術者は、重源の勧進により3月に醍醐寺上伽藍の大湯屋の鉄湯舟と湯釜の鋳造を成遂げた東大寺鋳物師草部是助(くさかべこれすけ)率いる14人の技術者が4月19日の頭部鋳造から合流して腕を振るっている。

 草部是助の技術集団については既に(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101104)で触れたが、東大寺に属する「東大寺鋳物師」でありながら、蔵人所に属する「東大寺─大仏方燈炉以下鉄器物供御人」として諸国七道を自由に往反可能な通行特権を有していたことも、諸国を勧進して東大寺復興事業を推進する重源に大いに役立ったと思われる。

 しかし大仏修造は陳和卿率いる7名と草部是助率いる14名の技術者だけで成遂げられたのではなく、河内鋳物師51名を加えて総勢72名の大所帯で運営されたのであるが、

 河内鋳物師についても(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101028)で述べたように、彼らは元は興福寺に属する鋳物師であったが、興福寺の雑務から解放される為に蔵人所の働きかけに応じて「燈炉以下鉄器物供御人」第1号になった事からもわかるように反骨精神旺盛で、鋳物師としてのプライドも高く、自分たちより後から「燈炉以下鉄器物供御人」に連なった草部是助に唯々諾々と和したとは想像し難い。

 日本人鋳物師間に横たわる、東大寺興福寺といった所属する寺社や、大和・河内といった地域の違いを克服するだけでも難儀だが、そこに日・宋間の正式な国交を持たなかったあの時代に、異文化の絡む72人の大所帯を纏める重源の苦労は、グローバル経済といわれながらなか国境を超えた人材活用が進まない2011年に生きる私たちにも想像を超えたものであったろう。


参考文献は以下の通り

『大仏再建〜中世民衆の熱狂』 五味文彦著 講談社選書メチエ

『日本の名僧 旅の勧進聖 重源』 中尾堯(遍) 吉川弘文館