後白河院と寺社勢力(78)渡海僧(22)道元 8 究極の師:如浄

 当時の禅宗における入宋僧の目的が、正師を求め嗣書(※1)による印可(※2)を授けられる事にあるとしたら、命がけで大陸に渡るだけでも大変なのに、主流や本流に満足しない道元のような僧ににとっては、広大な国土を遍歴しまわらなければならず、まるで江戸時代の武士の敵探しの旅のような不確実さが伴っていた。

 道元は天童山で宋禅の主流を成す無際了派から見込まれて印可の申し出を受ける幸運に恵まれながら、自分の意にそまぬとそれを辞退して正師を求めて二度も諸山・諸寺の遍歴を重ねながら師に巡りあわず、これ以上宋に留まっても無駄だと帰国を考えながら天童山に戻ったのであった。

 さて、天童山景徳寺に戻ってみると住持・無際了派は既に入寂して、了派の遺書により後事を託された如浄が住持を務めていた。

 如浄は中国曹洞宗の法を嗣いだ禅僧で古風禅復興の急先鋒であった。彼は師を持たず、道号(※3)を持たず、名利を求めず、簡素を好み、『如浄禅師語録』序に、《ひとり天童禅師(如浄)流れず偏らず兼ねてこれを有し、自ら一家をなして、八面に敵を受く》と記された硬骨漢で、前任の無際了派と異なり主流に背を向けた人であった。

 道元の伝記『建撕記』は如浄自身の言葉から如浄の人となりを次のように述べている。

【19歳で教学を捨てて禅の道に入り、広く諸方の禅林を遍歴したものの、遂に師と仰ぐ人に出会えず、以来一人で坐禅をしながら仏道を究め、それ以降は、一日一夜たりとも坐禅をしない日は無く、未だ禅院に住まない頃から、時間が惜しくて故郷に帰ることもせず、遊山の旅などもした事が無い。一人になれる静かな場所なら何処でも日ごろ持ち歩いている坐禅用の蒲団を敷いて岩の下でも何処でも坐禅をしてきた】と。

 その言葉通り、新任地天童山での如浄は63歳の身をも顧みず、夜は11時ごろまで坐禅を続け、暁天の3時前には修行僧と共に坐禅をし、一体何時眠っているのかと思われるほどの尋常一様ではない弁道(※4)姿勢であった。

 道元の入宋時代の参学記である『宝慶記』によれば、如浄と道元が初めて一対一で対面したのは南宋暦の宝慶元年(1225)5月1日であり、

【景徳寺妙高台(方丈)に焼香礼拝して道元が入ると、禅僧の椅子(曲彔》に腰掛けた黒衣に木蘭色の袈裟をつけた老僧が「仏仏祖祖の面授の法が今実現したな」と道元に言った】とされている。

 面授とは師と弟子が直接対面して仏祖正伝の仏法が伝えられる事だが、この場合は初対面であり、さらに如浄が道元に言った「このような面授の意味は私のもとにだけあることである」との言葉を考えるなら、道元は正に如浄に選ばれたということになる。

 そして、道元はといえば、正師を求めて諸山・諸寺歴訪の旅を終えて天童山に戻り、如浄を一目見た時から、自分が正伝の仏法を受け継ぐ正師はこの人を置いて他には居ないと悟っており、この仏仏祖祖の面授を境に道元は如浄の下で厳しい修行に励みながらも濃密な時間を持つ事になる。

 
(※1)嗣書(ししょ):禅宗において師から弟子に伝わった悟りの証明。
(※2)印可(いんか):師僧が弟子の悟りを証明すること。
(※3)道号(どうごう):仏道に入った後の号。僧侶の号。
(※4)弁道(べんどう):仏道を一心に修行する事。


参考文献は以下の通り。

道元禅の起源』鈴木鴻人著 泰流社
『孤高の禅師道元中尾良信編 吉川弘文館