2013-01-01から1年間の記事一覧
保元元年(1156)7月8日、後白河天皇側が藤原忠実・頼長親子を謀叛人と断定して摂関家の正邸東三条院を没収した翌9日夜半、7月2日に鳥羽法皇の臨終に駆けつけたものの対面を許されず鳥羽殿田中御所に籠居していた崇徳上皇が起こした密かな動きを、 …
鳥羽法皇崩御からわずか3日後の保元元年(1156)7月5日、後白河天皇側は崇徳上皇と藤原頼長が反乱共謀を企てたとの容疑で「京中の武士の停止」を打ち出し、出動を命じられた平清盛の次男・基盛が翌6日に藤原忠実・頼長に仕えて京と宇治を往還する大…
「11日、鶏鳴、清盛朝臣・義朝・義康等都(すべ)て6百余騎、白河に発向す。此の間、主上(後白河)、腰輿(※1)を召し、東三条殿に遷幸す。内侍、剣璽(※2)を持ち出す。左衛門督殿(忠通の息子基実)これを取り、腰輿に安んぜしめ給う。他の公卿なら…
1) レッスンから 今回のモチーフはアトリエ内の様々なオブジェから前歯の欠けた骸骨と葡萄を選び、骸骨の白さを際立たせる真っ黒な台布に載せた。 骸骨、葡萄の葉、葡萄粒の位置決め、輪郭を何度も描き直す。 白一色の骸骨の立体感をどう表現するか試行錯…
「通憲(後の信西)対して云わく、小僧の誤なり。謝罪するところを知らず。又云わく、閣下(頼長)の才、千古に恥じず。漢朝を訪うに比類少なし。既に我が朝中古の先達を超える。是の才我が国を過ぐ。深く危惧するところなり。今より以後、経典を学ぶなかれ…
天皇が崩御するまで皇嗣が決まらないこと自体が異例だが、崩御の翌日に決定したのが立太子を経ない部屋住みの29歳の壮年天皇の践祚と、その息子の親王宣下と同時の立太子というのは甚だ異例であった。 自分亡き後の美福門院の先行を考慮した鳥羽法皇が、雅…
前回述べたように近衛帝の后を巡る争いで美福門院と組んで頼長を出し抜いた忠通は、近衛帝の後継を巡って再び美福門院と組むことになる。 頼長の『台記』の仁平3年(1153)9月23日付は、関白忠通が眼病悪化を憂えて雅仁親王(後白河天皇)の王子(後…
1) レッスン来し方 昨年3月から絵画教室に通い初めてデッサンに取り組みこれまで続けてきたが、ここで幾つかの習作を取り上げそれぞれの作品を振り返ってみたい。今回は上等な革製の襤褸バッグ。ここでは尋常ならざるボロボロ感を表現するのが鍵となった…
政界復帰の父・忠実の強力な支援を受けて朝堂の頂点に昇り進めた頼長であったが、康治2年(1143)兄・忠通に嫡男(基実)が誕生したことで彼の前途に暗雲が垂れ込める。この時の頼長は24歳、47歳の忠通はその後に兼実・慈円など9人の男子を持つこ…
「頂点を極めた御堂道長から下って5代目に当たる藤原頼長の『台記』は正に摂関家自壊の物語でもある」と先回述べたのは、専制君主・白河法皇の摂関家への支配力強化のみが崩壊の要因ではなく、忠実・頼長と忠通との間に展開されて周囲を辟易させた摂関家嫡…
藤原頼長は保安元年(1120)5月に知足院関白藤原忠実の次男として生まれたが、その半年後の11月12日、父忠実は白河法皇によって内覧停止の宣旨を受け、翌年正月22日に内覧停止は解かれたが関白辞任に追い込まれ、代わって内覧宣旨を蒙り関白に補…
閑居暮らしも板につき、また40代に読んだ井上靖著『後白河院』に触発されて以来、定年後のライフワークにしたいと思い続けてきた院政期の大立者『後白河院』を探求する「なんでも後白河院」プロジェクトを隠居journal(http://d.hatena.ne.jp/K-sak…
頼長が内大臣に叙せられる直前の康治元年(1142)8月3日の『台記』に極めて注目すべき記述がみられる。「近年、南京衆徒乱逆最も甚だし。これにより、5月の頃より悪僧を勧学院に召し集む。(中略)召し取るところの15人、今夕摂政前左衛門尉為義(…
保延3年(1137)12月25日、藤原頼長は鳥羽天皇の四の君・雅仁親王の「読書始」に奉仕して作文会の講師を勤めている。この時の雅仁親王は11歳、9歳年長の兄で在位中の崇徳天皇との間に二人の兄がいるが、二人して生来の身体障害者であり、また兄…
太治5年(1130)正月3日、前関白・藤原忠実が偏愛する次男で11歳の菖蒲若(あやわか)を後見して、無事に「昇殿の儀」を遂げさせたのは『中右記』の著者・藤原宗忠であった。これに先立ち、宮廷人として殿上の簡(※1)に記される菖蒲若の名前の命名者…
藤原宗忠が検非違使別当を辞任した10年後の太治2年(1127)正月8日、かつて左衛門府生(※1)として彼に仕えた伴有貞(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130818)から、死去した同僚の内藤経則の後を継いで今年から皇室御願寺の六勝寺(※2)の一つで…
一般的に公卿は日記で下級官僚の仕事ぶりに触れることは非常にまれだが、藤原宗忠は検非違使別当就任中の日常活動をかなり詳細に『中右記』に記しており、ここで検非違使の中でも反乱鎮圧や逆賊などの追捕を担う追捕尉(ついぶのじょう)・火長(※1)・看督…
藤原宗忠は天永4年(1113)3月30日に当時の警察裁判機構の長官である検非違使別当に補任され永久4年(1116)5月1日に辞任しているが、この別当就任に関する『中右記』の記述は当時の社会のありさまを浮彫りにしてなかなか興味深いものがある…
この長期にわたる異常な永長田楽について「まったく前代未聞」「その起こる所を知らず」「けだし霊狐の所為なり」と『洛陽田楽記』に記した大江匡房も、『濫觴抄』では、そのきっかけになった起因を嘉保3年(1096)3月7日に生じた「死穢」に係る事件…
(3) 嘉保3年(1096)5月〜7月 永長大田楽「この10余日の間、京の雑人、田楽をなし、互いに以て遊興す。なかんずく昨今、諸宮諸家の青侍下部等、皆以てこの曲をなし、昼はすなわち下人、夜はまた青侍、皆田楽をなし、道路に充盈す。高く鼓笛の声…
50余年に亘る藤原宗忠の長い日記『中右記』の中で特筆すべきもののひとつに「永長大田楽」と呼ばれる上は宮中から下は雑人に至る田楽の狂い咲きが挙げられる。因みに「永長」とは堀河天皇治世下の嘉保2年(1095)と承徳1年(1097)に挟まれたわ…
「そもそも大行皇帝八歳即位、九歳詩書を携え、慈悲性に稟け、仏法心に刻む。凡そ其の在位二一年間、罪を退け賞を先とし、仁を施し恩を普む。喜怒色に出さず、愛悪掲げず。(略)この時に当たりて父母を喪ふが如し。我君才智漸く高く、巳に諸道に通ず。なかん…
仁安4年(1169)2月、43歳の後白河院が最後の俗体で出家のいとまで下鴨神社を参詣した時、神社前の梅の木に降りかかる雪と白い梅との区別がつかないほどで、さらに朱塗りの玉垣までも白く辺り一面が白妙の風情であった。さて、法会も御神楽、法華経…
後白河院は平治の乱の翌年永暦元年(1160)10月23日に熊野に向かって京を発ち、25日に熊野99王子の一つ厩戸王子の宿(大阪・泉南市)に宿泊した時、随伴者左衛門尉・藤原為保の先達の夢に王子が現れて「この度の御幸は喜ばしいが古歌(今様の懐…
ある年の5月に、今様芸人の江口・神崎の遊女(※1)や、美濃の傀儡子(※2)が集まって仏前に花を添える法会を持った時、延寿(下図参照)が今様の大曲「恋せば」をまだ歌えないので是非御所様(後白河院)から教わりたいと誰彼に話していましたよと近臣か…
後白河院の筆になる『梁塵秘抄口伝集』の中でも、とりわけ今様の師・乙前の語りを元に浮き彫りにした西行の祖父「源清経」像は白眉だと私は読むたびに思うのだが、愛情の失せた今様の第一人者で乙前の師であった目井に対する嫌悪感とパトロン魂との壮絶な葛…
ザ・バンドの解散コンサートライブCD「ラスト・ワルツ」を聞きながら、92歳の現役画家・野見山暁治著「続々アトリエ日記」を読む。独特の語り口に興を感じて最近ハマっているのだ。が、セクシーな声が流れてしばし中断。ああ、リック・ダンコが「ステー…
元永2年(1119)6月24日付『中右記』によると、藤原宗忠が前太宰権帥藤原季仲が6月1日に配流地常陸国で74歳の生涯を終えた事を知らされたと記しているが、この藤原季仲こそ宣旨に基づく検非違使協力の要請に応えて悪僧法薬禅師一味追捕の出兵を…
大山寺支配を目論んだ法薬禅師は(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20130408)、大山寺別当・法橋光清が石清水八幡宮別当を本職として京の八幡に常駐している隙を狙い、「叡山大衆使」を長治元年(1104)10月19日に筑前に派遣して、大宰府(※1)から…
昨年9月末の土曜に神保町に出かけた目的は、隠居journal(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)で展開している後白河院時代の寺社勢力に関する資料を探すためであったが、結果的に手にして帰宅したのは1961年12月刊行の「別冊アトリエ〜林武 デッサン」と…