後白河院と寺社勢力(79)渡海僧(23)道元 9 只管打坐

  道元の凄いところは偉大な師・如浄に対して「この国に来て和尚に出会うとは真に宿縁の慶幸である。然るに時は人を待たず、正師に遭遇しながらこのまま帰国すれば後悔が残るだけ。これからは和尚に質問したいと思ったときには時候や礼装・略装に関わらず随時参問の機会を与えて頂きたい」と文書で申し出て、如浄から「いつでも私の部屋に参問に来てよい」との承諾を得たことである。

 この事は、如浄にとって道元が外国の若者であるにもかかわらず、天童山が擁する一千人の修行僧の中で際立った器量と才能を有しており、それだけ道元への期待が大きかったことを物語る。

 翻って道元の立場に立てば、宝慶元年(1225)5月1日に如浄と念願の「仏仏祖祖面授」を果たした間もない5月27日に体調を崩していた明全が入滅するという悲劇に直面して、明全に代わって自分がそれなりの成果を持ち帰らねばならないという責任が重くのしかかり、残された限られた時間を有効に活かす為に濃密な時間を如浄と共にするなかで、何としても伝授の証の嗣書を授けられて帰国したかったのである。

 ところで如浄が修行僧たちを教示するうえで最も重視したのが「身心脱落(しんじんだつらく)」であった。彼は道元に対しても「坐禅をすることは身心脱落なのだ。坐禅は身心を一切の束縛から解き放った状態を示すもので、だからこそ、焼香・礼拝・念仏・看経などといった形式にとらわれずひたすら坐禅すべきなのだ」と、身心脱落のために徹底した坐禅、つまり只管打坐(※1)こそ仏法実践の原理であると強調している。


(上図は頭がちょん切れているが「只管打坐」と彫られた鎌倉の道元禅師顕彰碑:平成23年4月中旬撮影)

 私事で恐縮だが、「ひたすら」という言葉を多用する癖の私は漢字転換のたびに只管が出てきて違和感を覚えていたが、今ではこれは禅宗から生まれた言葉だったのかなと思い始めている。

 さて、道元の身心脱落の機縁(※2)について『永平寺行状記』などによると、ある日の暁天の座禅の時、一人の僧が睡魔に負けて居眠りをしているのを見つけた如浄が「参禅はすべからく身心脱落なるべし。只管(しかん)に打睡(だすい)するとは何事か!!」と僧堂に響き渡る声で一喝した。

 この意は「座禅を行じている姿こそ身心も束縛から解放された自由の境地なのだ。ひたすら居眠りをして何とする」であり、

 その傍でこれを聞いた道元は如浄の言葉に俄かに迷妄から開放されて身心脱落し、坐禅が終わると直ちに妙高台の如浄に向かって厳かに焼香礼拝した。

 それに対して如浄が「焼香とはどういうことか」と問うと、道元は「身心脱落に至りました」と、これまで自分が囚われていたあらゆる我執、束縛、煩悩から解放されて自由な心境に到ったことを告げると、如浄は「身心脱落、脱落身心」と道元の身心脱落を即座に認め、身心脱落について幾つかの問答を交わした後で如浄は道元の悟道を印可した。

 その場に居合わせた福州(福建省)出身の待者が「細に非ず、外国の人、このような大事を得たり」と賛嘆したとされるが、これは道元の創作という説もある。

 道元は遂に如浄から嗣書を授けられ、さらに貴重な法衣や典籍の『宝鏡三昧』『五位顕訣』、そして如浄自身の頂相(※3)まで与えられ、安貞元年(1227)に帰国の途に着くのであるが、24歳で入宋した道元はその時28歳になっていた。


(※1)只管打坐(しかんたざ):禅宗で、余念を交えず、ひたすらに坐禅をすること。
(※2)機縁(きえん):仏の教えを受ける衆生の能力(機)と、衆生と仏との関係(縁)をいう。
(※3)頂相(ちんぞう):禅宗の高僧の肖像。嗣法の際に証拠として与えられた。


参考文献は以下の通り。

道元禅の起源』鈴木鴻人著 泰流社
『孤高の禅師道元中尾良信編 吉川弘文館