2012-01-01から1年間の記事一覧
興福寺支配下の大和国では、延暦寺末寺の多武峰が何かと興福寺の襲撃を受ける一方で、延暦寺の影響下にあった京においては、興福寺末寺の清水寺が別当という人事に延暦寺の利害が絡んで僧徒が蜂起すると、「永久の嗷訴」に見られるように本寺の興福寺が乗り…
永保元年(1081) 3月5日 興福寺僧徒数千人が、多武峰(とうのみね)を襲撃し付近の民家300余区を焼く。多武峰の僧は大織冠を負って逃走。 3月25日 多武峰僧徒数百人が入京して興福寺僧徒の襲撃を嗷訴 天仁元年(1108) 9月10日 興福寺の…
長期に亘り激しく対立した南都(興福寺)と北嶺(延暦寺)の抗争の中で最も象徴的な出来事は、永万年(1165)8月7日の二条天皇の葬儀の墓所で、寺号の額をかける順序を巡って興福寺と延暦寺の僧徒が争った事件であろう。このありさまを『平家物語』か…
クローゼットを掻き回していると、ペットボトル入りの保存水二本とカロリーメイトが二箱出てきた。多分、防災用品キャンペーンで買ってそのまましまいこんでいたのだ。カロリーメイトの消費期限は短かったので文句なく廃棄したのだが、問題は2009年8月…
山門・寺門間の抗争に対して摂関期末の藤原頼通の道理を前に押し出した姿勢を先回に述べたが、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121118)翻って院政後期の後白河院はどのように対処したのであろうか。 応保2年(1162)閏2月に朝廷が園城寺長吏・覚忠…
正暦4年(993)8月に、円仁派の門徒から追放された円珍派の門徒が比叡山を下りて園城寺を本拠としたことから、天台は山門(延暦寺)と寺門(園城寺)に分裂した事は先回述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121028)が、その動機は、良源入滅後4年…
延暦寺では開祖最澄→円仁系と最澄の通訳として遣唐使に同行し最澄の没後に第1世天台座主と称した義真→円珍系の二つの法門が10世紀半ばまで対立が表面化することなく潜伏していたが、第5世の円珍以降は第13世の尊意に至る70間を一人を除いて円珍派が…
4月からデッサン教室に通っている。体験レッスンで長く長く芯を尖らせた幾本もの鉛筆を見て驚き、レッスン初日に「画帳に8つの升目を作って、それを一本の鉛筆で8段階のグラディションで塗り分けるように」と課題を出されて唖然とした私であった。それで…
治承2年(1178)1月20日、後白河院の園城寺での伝法灌頂伝授を阻止する目的で延暦寺の大衆が蜂起して園城寺の焼討を図るが朝廷の説得に従った事は先に述べた(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20121008)。 朝廷の説得には後白河院が園城寺での伝法灌…
院政期の代々の専制君主たる法皇を悩まし続けた山法師・僧兵は一体何時頃出現したのであろうか。「武士が先か、僧兵が先か」は、未だ「卵が先か鶏が先か」に類する論争の一つですが、僧兵の出現ともいうべき僧侶の武装が始まったのは、天禄元年(970)に…
【長寛元年(1163)】3月3日 延暦寺が朝廷に園城寺僧徒を比叡山の戒壇院で受戒させることを要請。 5月22日 これを受けて朝廷は園城寺に対して比叡山戒壇院での受戒を命じる宣旨を下す。 5月29日 興福寺が朝廷に、延暦寺を興福寺の末寺とし園城寺…
下図は『法然上人絵伝』の中でも最も艶やかな場面である。朝廷から流罪を命じられた法然一行の船が配流地讃岐への途次に播磨国の室の津に着いた時、当地で最も売れっ子と評判の遊女が小舟で近づき、「私は苦界に身を沈めて春をひさぐ生業。このような者が如…
関東における専修念仏の広がりは、法然上人の生前中はそれ程ではなかったとする説が支配的であるが、現在までに確認されている法然の消息文(門弟の代筆を含む)37通通のうち、関東に関するものは、御家人の熊谷直実宛4通、津戸(つのと)三郎宛9通、大…
『平家物語』は、平家興隆の礎となった平正盛から数えて忠盛→清盛→重盛→維盛に継ぐ嫡孫・六代の鎌倉幕府による処刑をもって「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」と物語を終わらせている。 ところで話は飛ぶが、建暦2年(1212)正月23日、余命…
2005年7月12日の日経新聞(朝刊か夕刊か忘れた)の広告欄で桐島ローランドさんが登場している記事が眼に留り、始めて似顔絵を描いてみたくなった。この時は私の手と鉛筆がリズミカルに動いて、我ながら特徴を捉えていると思える仕上がりになった。 で…
一の谷の合戦で生け捕りされた平重衡は東大寺・興福寺の伽藍を灰燼に帰した咎により南都の大衆に引き渡され処刑される運命にあったが、せめて死の前に煩悩を払いたいと出家を望む。しかし「頼朝に対面した後ならば」と後白河院に却下され、出家が望めないな…
1974年の長崎旅行でスケッチをして以来「お絵描き帳」はクローゼットの奥深く仕舞いこまれて茶色に変色したのだが、2005年7月に新たな「お絵描き帳」を入手してミニコンポを描いているのは、定年退職後1年を経て気持ちが落ち着いたからであろうか…
ところで吉田兼好は『徒然草』第146段で平家の護寺僧だった明雲について下記のように極めて示唆に富む逸話を残している。“明雲座主、相者にあひ給ひて、「おのれ、もし兵仗の難やある」と尋ね給ひければ、相人、「まことにその相おはします」と申す。「い…
アパートの窓から児童公園を見下ろせた。右端に木の柵に囲まれた石段があり、子供たちはそこからとっとこ、滑り台や砂場やブランコに向かって駆け出す。週末に開け放した窓から、遊びに夢中になっている子供たちの声を聞いているだけで心が和んだものだった…
福原から数千騎を率いて上洛した清盛が内裏を制圧し、後白河院を鳥羽殿に幽閉して院の近臣を解官したあと、高倉天皇に譲位を迫って外孫の安徳天皇を即位させた治承のクーデターについては広く知られているので詳しくは触れないが、後白河院を排除しての安徳…
1969年頃は西武池袋線の練馬区で木造アパートの六畳一間で暮した。一階に大家さんが住み、二階に私を含む4人の店子、風呂なし銭湯通いで共有トイレの掃除も店子の当番制だった。 だからキッチンの流しで歯磨き・洗顔をし、夜遅く帰宅して銭湯に行けない…
共に天台座主明雲から戒を授けられながら、後白河院と平清盛の明雲との関係は対照的であった。何しろ後白河院の近臣と延暦寺の衆徒は事あるごとに衝突し、その度に衆徒は産土神(※1)日吉社の神輿をかざして叡山から大挙して入洛し、後白河院に近臣の処罰を…
長崎へはバスで向かったのだが、その途中で阿蘇周遊で楽しんだ。文字通りのホットスポットといえる噴火口はバスを降りて近くまで足を運んだ。 モクモクと立ち昇る黒い煙と湿った熱気を通して見えたのは擂り鉢状の深い深い火口で、一歩足を踏み入るとズルズル…
「賀茂川の水、双六の賽、山法師」は希代の専制君主・白河法皇を嘆けかせた三不如意としてつとに有名だが、ここでの山法師とは延暦寺の僧兵である。方や、摂関家・藤原氏の氏寺としての権勢を背景に、いかなる非理非道も押し通して氏の長者・藤原道長すら「…
街をぶらぶら歩いた感じでは、墓地と坂道が多いというのが長崎の印象であった。特に墓地に関しては、日頃見慣れた墓地と異なり、長崎のそれは最初に紹介した「ホタル茶屋下車の高台の墓地(http://d.hatena.ne.jp/K-sako+kankyo/20120602)」を含めて、唐風…
43歳の法然が教学上の浄土宗の立宗を志して師・叡空と黒谷に別れを告げ、西山広谷に訪ねた念仏聖人・遊蓮房円照は平治の乱で獄門に晒されたた藤原通憲(みちのり)信西の息子でであった。円照の俗名は是憲(これのり)、平治の乱を契機に21歳で出家して…
当時30歳の私は気持ちだけはやる気満々のOLで、朝5時半には起床して300CCの牛乳、ゆで卵1個、トースト2枚のヘビーな朝食で体制を整えて始業1時間以上前にはオフィスに到着し、「静かだと仕事が捗る」などとうそぶいていたのだった。 で、この日も…
さて、全ての仏教界を敵に廻しかつ朝廷並びに幕府から度々弾圧された「専修念仏」を立宗するに至った法然を理解する為にここで法然が生きた時代に眼を据えてみたい。 法然が生まれた長承2年(1123)は崇徳天皇の御世であるが、「公地公民制」に則った律…
この道は「長崎ビードロ美術館」へ向かう道。勝手に名付けて「ビードロ・ロード」。横断歩道を渡ってすぐのところでエキゾチックで瀟洒な二階建ての「ビードロ美術館」と対面する。 美術館に足を踏み入れると、オランダ貿易の唯一の窓口として栄えた長崎を象…
『選択本願念仏集』(略して『選択集』)の選択は単に色々ある中のどれかを選ぶのではなく、専修念仏一行だけを選び取り他の一切の行を捨てるという窮めてラジカルな意味が籠められている。 それでは、一体どのような経路を経て法然は『選択本願念仏集』を結…