後白河院と寺社勢力(82)遁世僧(3)東大寺大勧進たちの横顔

 旅の衣はすずかけの、露けき袖やしほるらん 
  時しも頃は如月の、きさらぎの十日の夜、 月の都を立ち出て  
   これやこの、行くも帰るも別れては、知るも知らぬも逢坂の、  
    山かくす、霞ぞ春はゆかしける、    
     波路遥かに行く舟の、海津の浦に着きにけり。

 歌舞伎には「松羽目物(まつばめもの)」といわれる能や狂言を素材にした演目がありますが、上記の味わい深い文言は、能「安宅」を素材にした歌舞伎十八番勧進帳」で、義経一行に降り懸かった危機を、咄嗟の判断で「われらは奈良東大寺の再建のために北陸道につかわされた僧である」と告げ、真っ白の巻物を掲げて弁慶が朗々と読み上た「勧進帳」の文言です。

 「中世が勧進の世紀」と呼ばれるのは、国家財政の破綻により、本来は朝廷や地方行政機関である国衙が手掛けるべき橋、道路、港湾設備から官寺の建設・修復などの土木事業が、勧進上人(聖人)によって行われるようになったからであり、何と言ってもその嚆矢は平重衡の南都焼き討ちにより灰燼と化した東大寺再興を担って後白河院の宣旨により東大寺大勧進を重源が拝命したことにあります。

 61歳から入滅する86歳まで東大寺大勧進を極めた重源の活動は、2011年に高齢化社会を生きる私たちに示唆すること大なので、その部分は改めて取り上げる事にして、ここでは重源から偉業を引き継いだ幾人かの東大寺大勧進をスケッチしてみたい。

【重源】

 重源については既に(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20101120)で取り上げたが、東大寺大勧進を引き受けるまでをスケッチすると、保安2年(1121)年に武士・紀季重の子として京都に生まれ、長承王2年(1132)に上醍醐寺に入って出家してその後に醍醐寺密教を修した。

 若年期には四国の真言霊場や大峰、熊野などの霊峰を巡って山林修行を積み、長寛1年(1163)から安元2年(1176)の間に三度入宋し、そのうち一回は栄西と一緒に帰国したことはよく知られているが、帰国後は高野山延寿院の銅鐘の勧進上人として活動している。

 その一方で法然に師事し、無住の『沙石集』(※1)によれば、後に天台座主延暦寺のトップ)に就任する顕真が大原勝林院に遁世していた頃に『往生要集』(※2)の講義を48日間行った時、法然と一緒に重源も講師として請じられ、48日の講義が終わった後に法然と重源の二人が残り、法然がこの講義の結論をどう思うかと重源に問ったところ「糂汰瓶(じんだがめ)一つでも執心のある物は捨てるべきであると心得ている」と答えた重源に、御簾を隔てて聞いた顕真が感動したという説話を伝えている。重源の人柄を語ってあまりある説話である。

栄西

 栄西も既に(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20110105)で取り上げたが、建永元年(1206)6月に示寂した重源の後任として第二代東大寺大代勧進の勅命を受け建保3年(1215)7月に75歳で入滅するまで勤た。

 栄西が重源の後任に補された世背景としては、重源と共に入宋して宋の最新技術に通じていた事と、万年寺の三門や左右廊下の修造、観音院や大慈寺天台山の智者大師の塔院の廃毀への資金の喜捨、天童山の千仏閣の改築など、入宋中の勧進活動が宋人から高く評価された事も関係している。

 また、鎌倉寿福寺北条政子の、京都建仁寺では源頼家の帰依を受けていたことから、源頼朝亡き後の鎌倉幕府の大きな援助も期待できた。

 このほかにも、朝廷の御願寺の象徴ともいえる法勝寺九重塔が承元3年(1209)8月に落雷によって焼失した際には、朝廷から再興の勧進職を命じられ、建保元年(1213)に完成させて優れた勧進能力を発揮している。

【行勇】 

 荘厳房行勇(しょうごんぼうぎょうゆう)は鎌倉鶴岡八幡宮の供僧となって密教を学び鎌倉永福寺大慈寺別当を務め、源頼朝北条政子夫妻の帰依を受け、政子が出家・剃髪する際にはその戒師をつとめ、正治2年(1200)に栄西が鎌倉に下向した際には寿福寺で参禅して門下となり、栄西の示寂に伴い鎌倉寿福寺と第3代目の東大寺大勧進を継承し「寿福寺長老」と呼ばれた。 

円爾

 円爾(えんに)は駿河の人で18歳で園城寺で出家し東大寺具足戒を受けた。上野(こうづけ)長楽寺で栄西の弟子栄朝に師事して顕・密二宗を修めたが34歳で禅を学ぶために入宋し無準に学んで40歳で帰国し、暫くは博多に腰を据えていたが、上京して九条道家の帰依を得て京都に東福寺を開創して宋風の座禅の作法を広め、後に第10代東大寺大勧進を勤めた。

 上記に挙げたのは鎌倉時代東大寺大勧進を勤めた僧たちでああるが、これを見ると、東大寺再興とい大事業には財政的にも政治的にも強い力を持つ鎌倉幕府と強い繋がりがあることと、建築・土木における宋の先端技術に長じた入宋経験を持つ禅僧が重用されたことが窺がえる。

 因みに東大寺大勧進には養和元年(1181)から大永7年(1527)まで中断を挟んで46人の僧侶が任命されているが、鶴岡八幡宮別当を務めた第6代の定親を除いて全てが遁世僧であったことは真に興味深いことである。

(※1)『沙石集(しゃせきしゅう)』:鎌倉時代臨済宗の僧・無住によって書かれた仏教的説話集。

(※2)『往生要集(おうじょうようしゅう)』:恵心僧都と呼ばれた平安中期の学僧・源信によって書かれた仏書。経論中から往生の要文を抜粋して書かれ念仏を勧めたもので文学・芸術に大きな影響を与えた。

(※3)糂汰瓶(じんだがめ):糠味噌を入れた壷。『徒然草』にも「後世(ごせ)を思はん者は秦太瓶一つももつまじきことなり」と書かれている。


参考文献は以下の通り

『鎌倉仏教』 田中久夫著 講談社学術文庫

『鎌倉新仏教の誕生』 松尾剛次著 講談社現代新書