後白河院と寺社勢力(73)渡海僧(17)道元 3 サラブレッドの

 3歳で父・源通親と、8歳で母・藤原伊子と死別した道元(幼名:文殊)は9歳で『倶舎論』を読んだと伝えられてているが、出家を志した栄西も8歳で読んだとされる『倶舎論』は、4〜5世紀ごろ西インドの僧・世親(せしん)によって著された30巻からなる仏教の基礎的教学であり、このことからも道元の強い出家の決意が読み取れる。

 13歳になった道元は母方の叔父で後に天台座主となる良顕を叡山に訪ね出家の相談をする。道元を継嗣と願う藤原基房の意を知る良顕は一度は反対するが、結局は彼の意志に逆らえず横川の僧房に彼を預け、あくる年道元天台座主・公円の導きによって正式に出家し、この時から仏法房道元と名乗る。

 当時は出家して鎮護国家の祈念を理とする叡山のような大寺院の僧になるということは、国家公務員として一種の特権的な身分と生活の保証を手に入れることを意味した。

とりわけ、叡山を始めとする南都北嶺(※1)の僧には公務員としての身分保証だけでなく、朝廷・院・公卿の催す仏事や、大寺院の恒例の法会に招かれたり、教学の知識を試す論議にも参加して実績を重ね、その実績を評価されて朝廷から僧官(僧綱※2)に任叙される。これが僧としての立身出世の過程であった。 


 

上図は後白河院が催した「如法経供養」の様子。天皇上皇女院の催す法会に招かれる回数が出世の決め手となった。(『法然上人絵伝』中央公論社より)




上図は延暦寺根本中堂の様子、僧綱襟と呼ばれる立襟が僧の出世のシンボル。(『法然上人絵伝』中央公論社より)

※1南都北嶺(なんとほくれい):南都の諸寺と比叡山。特に興福寺延暦寺を指す場合が多い。

※2僧綱(そうごう):僧尼を取締り諸大寺を管理する僧職。僧正・僧都・律師からなる。

 しかし、摂関家内大臣家との間に生まれた道元のようなサラブレッドには、このような階段を一段一段登る必要はなかった。

 何故なら、比叡山延暦寺の長官ともいえる天台座主(てんだいざす)は朝廷によって任命される公的な役職で、院政期以降は皇室や摂関家の出身者の就任が常態化しており、例えば63世天台座主・承仁法親王後白河院の皇子であったし、道元が出家の相談をした良顕は後に承円と名乗り68世、72世の天台座主を務め、祖父藤原基房の異腹の弟・慈円は62、65、67、71世と4回も天台座主を務めている。

 備中吉備津神社の一神官の息子であった栄西と違って、いきなり天台座主・公円の導きで出家したたサラブレッドの道元には、忍耐を要する長い長い修行や雌伏を経ることなく、いずれは天台座主への道は用意されていたわけで、母の藤原伊子が彼の出家を望んだのも、醜い政治の世界でなくても息子が栄光を目指せるとの思いがあったからではないか。

しかし、18歳になった道元はそんな栄光に背を向け叡山を後にする。