後白河院と寺社勢力(74)渡海僧(18)道元 4 出家の根拠を求

 道元は建保5年(1217)の夏に18歳で建仁寺の明全に入門し、その後明全と共に入宋するのだが、それ以前にも15歳で一度叡山を降りて三井寺の座主・公胤を訪ねている。

 この頃の叡山は、清水寺の帰属を巡って興福寺と激しく争い、興福寺の衆徒が春日大社の神木を奉じて大挙して京に押しかけた混乱の責任を取って、道元の出家の師・公円が天台座主を更迭され、代わりに道元の父・源通親が引き下ろした慈円が後任になるといった騒ぎだけでなく、日吉社の神饌を巡る山門(叡山)と寺門(三井寺)の争いが、東大寺興福寺・金峯寺をも巻き込む大きな抗争に発展して、僧兵が互いの寺院に焼討ちをかけて武闘を展開するという状況にあった。

 だから、道元がそうした叡山に愛想をつかして飛びだしたかといえば、そのような武闘や破壊は彼の生前から、つまり律令制度が崩壊する過程で数世紀に亘って展開されており、鎌倉政権樹立により頂点に達しただけの事で、幼少時からこのような事態を見聞きしていた道元にとっては承知の上で出家であった。

 彼にとっての問題は出家の理念にあり、道元が身を投じた当時の叡山では「自身本覚(じしんほんがく)、我身即真如(がしんそくしんにょ)」、自分がそのまま真実であり、自分がそのまま仏であるという思念が広く流布しており、その思念の如く修行という漸進的・段階的な過程を経ないで、自分がそのままで即座に仏になれるのであれば、何故出家して厳しい修行に専念する必要があるのかと、自らの出家の根拠への根源的な問いかけが生まれるたのである。

これに関して道元の伝記『建撕記(けんぜいき)』では、

顕密の二教は共に「本来本法性(ほんらいほんほっしょう)、天然自性身(てんねんじしょうしん)」と語っているが、もしそうであるなら、過去・未来・現在の三世の諸仏は何を根拠にして、ことあらためて発心して菩提を求めたのであろうか、とあり、

 人は生まれながらにして法性・性身、仏性を身につけているのであるなら、なぜ世俗のままではいけないのか。殊更出家して厳しい修行をする必要はないではないかと、出家の根拠に疑問が生じたとされている。

 さらに、道元の弟子懐弉(えじょう)が深草興聖寺における道元の説教を記録した『正法眼蔵随聞記』によると、

「この国の大師は土瓦の如くに思えて、正師に会はず善友なき故に、迷ひて邪心をおおこし」と道元は述べ、

師も友も見出せないまま孤立した道元は、僧として生きる場所を求めて叡山を去っていったのであろう。


参考資料は以下の通り

道元禅の起源〜思想としての身体』鈴木鴻人著 泰流社

道元〜日本人のこころの言葉』大谷哲夫著 創元社