後白河院と寺社勢力(77)渡海僧(21)道元 7 権威よりも無名

 やっと7月に天童山の入山許可が降り勇んで足を踏み入れた道元の眼を射たのは、山の傾斜地に段状態に配置された伽藍の様で、それは平地に建つよりも遙かに迫力に満ち、これまでの日本では見られなかった光景であった。

 当事の天童山の住持は、かつて宋禅の主流として臨済宗を興隆させた大慧宗杲(だいえそうこう ※1)の法孫にあたる無際了派(むさいりょうは)が務めており、その大慧宗杲は日本達磨宗・開祖の能忍を認可した禅者として日本でも知られた拙庵徳光(せつあんとっこう)の法を嗣ぐ看話禅(かんなぜん ※2)の大成者であり、道元が入宋した頃は拙庵徳光の弟子たちが大きな影響力を発揮しており、そんな中で賓客として迎えられた明全・道元一行は禅宗を修める留学僧として最高の環境にあったといえる。

 天童山の了然寮に起居の場を与えられた道元は、弁道に励む修行僧の一挙一投足に眼を凝らし、袈裟を掛ける時に唱える「塔袈裟偈(たつけさげ)」やその作法に「袈裟功徳(けさくどく)」の意を識り、無際了派の下の真摯な修行僧たちに共鳴していく。

 住持・無際了派が大慧宗杲から相承した看話禅は代々の公案を工夫して悟りを開くことを旨としており、道元も大慧宗杲以来脈々と受け継がれてきた公案・規範から知識を得るべく祖師の語録を読んでいた時、

「それを読んでどうするのか」と四川省出身の無名の僧から問いかけられる。

 「故国に帰って人を救おうと思っている」と道元が答えると、「何のためだと」と畳みかけられ、「利生のために」と答えると、「畢竟何のためだ」とさらに突っ込まれて道元は絶句する。

 その事を思い出した道元が「私は随分後になってこの問いから、語録や公案を読んで古人の行跡についての知識を得、それを迷いに直面した人々に語り聞かせても「自行化他(じぎょうけた ※3)」のためには何の役にも立たないことに思い至ったのだよ」と述懐したと、弟子の懐弉は道元の法語を筆録した『正法眼蔵随聞記』に記している。

 ここで得体の知れない無名の僧など無視して宋国主流の無際了派の教えを修得すれば大手を振って凱旋帰国できたものを、道元はこの無名の僧に切り込まれて逆に権威ある無際了派の下で修行を続けることに疑問を抱き、明全と別れて諸山歴遊に旅立つのである。

「書を捨てて街に出よ!」の宋禅版とでもいいますか。


(※1)大慧宗杲:宋代の臨済宗楊岐派の僧(1089〜1163)で公案禅を広めた。

(※2)看話禅:公案を工夫研究して悟りをひらこうとする禅法。

(※3)自行化他:自ら修行して、さらに他人を教化して、悟りに入らしめること。