道元は正治2年(1200)の1月に、内大臣源(土御門)通親を父に、前摂政関白藤原基房(松殿)の娘・伊子(いし)を母に京の松殿の別邸で生まれた。
当時の貴族社会では生まれた子供は母方の家で育てられるのが一般的であったから、祖父の元房は孫をゆくゆくは有力な後継者とすべく英才教育をほどこし、道元は幼少時から聡明さを発揮して『前漢書』『後漢書』『史記』や唐代の帝王学書『貞観政要』を読んでいたといわれる。
しかし、道元が8歳のときに死別した母の伊子は道元の出家を強く望み遺言にその旨をしたためたとされるが、一体何故彼女は父・基房の考えに強く反対したのか。
それは彼女の人生に照らして極めて納得できる事で、彼女は源平争乱期には入京した木曾義仲と16歳で結婚させられて兄師家の摂政実現の生贄にされ、義仲討死後は後白河院政の頂点で辣腕を振るっていた内大臣・源通親に嫁がされるという二度の政略結婚を強いられたからである。
それでは、伊子にとって道元の父であり夫である源通親とはどのような男であったか。
源通親は村上源氏の嫡男でありながら平氏全盛期には高倉院に仕えて平氏の信頼を獲得し、清盛とのさらなる絆を強めて清盛の弟・教盛の娘と結婚するが、平氏が安徳天皇を擁して都落ちする際には、彼らを見切って比叡山に蓄電していた後白河院のもとに馳せ参じ後白河院に忠誠を誓っている。
その後の源通親は、院の寵妃・丹後の局と組んで愛娘大姫の後鳥羽後宮への入内を望む源頼朝を翻弄しつつ、娘任子を入内させている九条兼家との競合を利用して対後白河同盟にあった頼朝と兼実の間に楔を打ち込む一方で、通親自身は権勢を振るう後鳥羽天皇の乳母・藤原範子を妻にして、範子の連れ子・在子を養女にして後鳥羽天皇に入内させて、兼家、頼朝と共に天皇の外戚競争を展開している。
そして、めでたく在子が第一皇子出産の暁には一方的に九条兼家を政界から追放し、天皇の外戚として内大臣にもかかわらず、摂政関白・藤原基通を押し退けて強力な政治力を発揮する。
この親にしてこの子ありというべきか、通親の子・道具(道元の父という説もある)は古女房の藤原俊成卿の娘(定家の姉妹)を離縁して、土御門天皇の乳母・従三位按察局(あぜちのつぼね)と結婚して定家を悲憤させたと、『定家明月記私抄』(堀田善衛)は述べている。
当時の天皇の乳母は絶大な権限を有しており、加階・昇進を望む貴族は天皇への口利きを期待して、乳母に金品や荘園を寄贈をする事が常態化しており、藤原定家もこの事では随分苦労したようである。
源平内乱期に木曾義仲に嫁がされ、源通親全盛期には彼に嫁がされ、まさに乱世に翻弄されたといえる藤原伊子は、裏切りと権謀渦巻く政治の世界にわが子道元を投げ込みたくはなかったのだ。