後白河院と寺社勢力(80)遁世僧(1)九条兼実の嘆息

 建久3年(1192)2月8日、後白河院崩御により関白としての手腕を存分に発揮できる時を得た九条兼実は、一人の興福寺の僧を自宅に招いて遁世を思い留まるように説得していた。

 興福寺藤原氏の氏寺であり、その藤原氏を代表する兼実にとって、当時学僧としてめきめき頭角を現し、前年の息子・良通の忌日の法事の折に際立った表白文で兼実を賛嘆させた解脱房貞慶(げだつぼうじょうけい)には、是非とも僧綱(律師・僧都・僧正)の出世階段を登って、行く行くは興福寺を代表する存在になって欲しかったのである。

 興福寺東大寺などの南都や延暦寺といった北嶺の官寺(※1)の僧には、単に仏教教学の研究をするだけではなく、朝廷・院・女院・公家の催す仏寺や大寺院の恒例の法会に招かれたり、教学の知識を試す論議に参加することが求められ(公請※2)、その経歴や出席回数によって朝廷から僧綱(僧の官位)に叙せられるのが律令制下の僧侶の立身出世の過程であった。

 兼実に呼ばれた時点で既に貞慶は興福寺維摩会(ゆいまえ)ほか二会(にえ)の講師を歴任して将来を嘱望されていたにもかかわらず、春日明神のお告げにより興福寺を去って笠置寺に遁世すると宣言したのである。
 
 延暦寺の官僧から僧侶生活を始めて18歳で遁世した法然が、承安5年(1175)には43歳で東山吉水に拠点をおいて浄土宗を開祖しており、南都でも巨大な弥勒菩薩の磨崖像(まがいぞう)のある笠置寺にはかなりの数の遁世僧(聖)が集まって弥勒信仰の霊場となっており、貞慶はこれらの遁世僧と交流していたのであった。

 で、結局、兼実は貞慶の決心を覆す事は無理と察して「物の要にかなう人が篭居(遁世)する事は、僧でも俗でも同じで、仏法破滅の相である」とその気持ちを『玉葉』に述懐しているが、その兼実も建久9年(1198)には遁世僧中の遁世僧であった法然の専修念仏に帰依して、天台座主延暦寺のトップ)を4度も務めた実弟慈円を嘆かせた。

 因みに、法然の高名な『選択本願念仏集』は兼実の懇請により弟子たちの協力を得て著したものである。

 勢いの頂点にある時は遁世僧を理解できなかった九条兼実だが、建久7年(1196)に源通親後白河院寵妃・丹後局の共謀によって関白の座を追われたことで無常の境地に至ったということであろうか。

(※1)官寺:律令制下、伽藍造営費を官府が支出し、経営維持に食封(じきふ)が給せられた寺。南都北嶺の大寺や国分寺など。

(※2)公請(くじょう):朝廷から経典の講義・議論などに招かれる事。


参考文献:『鎌倉仏教』 田中久夫著 講談社学術文庫