後白河院の娘(2)式子内親王(6)式子の出家と法然

 
石丸晶子著「式子内親王伝〜面影びとは法然」によると、

 浄土宗の開祖法然北条政子九条兼実正室熊谷直実への返書など幾つかの消息文を残しているが、その中の言葉使いから見て高貴な女性に対するものであろうと推測される「正如房」宛の返書が一体誰に書かれたものか長い間不明であったが、

 明石無量光寺の小川龍彦師(昭和29年)と知恩院八十三世門主岸信宏師(昭和30年)により、「正如房」とは出家して「承如法」の戒名を持つ式子内親王の事であり、筆写の過程で、法然没後45年に親鸞が筆写した『西方指南抄』では「しやぅ如ばう」、没後63年の『和語燈禄』では「正如房」、そして没後95年以降の『法然上人行状絵図』では「聖如房」と変化した結果、「承如法」が「正如房」になった事を紹介している。


 これに興味を覚えた私は、早速、近所の図書館から『法然上人行状絵図』をベースにしたと思われる『法然上人絵伝』を借りてページを捲ったのだが、

 「尼聖如房は、深く上人の化導に帰し、偏に念仏を修す。所労の事ありけるが、臨終近付きて、『今一度上人を見奉らば』と申しければ、折節別業の程なりければ、御文にて細かに仰せ遣わされけり」の書き出しで、長い長い法然の手紙の趣を深く心に染めて、念仏怠らず目出度く往生を遂げた聖如房のいきさつが記されていた。



上図は『法然上人絵伝』の「尼聖如房の臨終に手紙を送る」の場面(続日本の絵巻2中央公論社より) 


式子内親王と聖如房が同一人物であるとすると、『法然上人絵伝』の「尼聖如房は、深く上人の化導に帰し」とは一体どういうことになるのか。

 父後白河院密教に深く帰依しているだけでなく、式子には、皇室との関係が深く、密教の権威を代表する仁和寺に六代御室を務める守覚法親王という弟がいて姉の亮子内親王(殷富門院)の出家を手がけ、また祖母の待賢門院や叔母の統子内親王(上西門院)の出家を手がけたやはり仁和寺五代御室を務めた叔父の覚性法親王がいたはずなのだが。


 ところで、『國文學解釈と鑑賞1991年5月号』の「式子内親王〜出家の真相は何か」で、錦仁氏は、藤原定家の「明月記」の建仁2年8月22日付「故斎院、八条殿におはしますの間、思ひおはしますに依り属事に付け、此の姫宮並に女院を呪詛し奉る。彼の御悪念、女院御病をなすの由、種々雑人狂言す。之に依り、斎院漸く御同宿無し。押小路殿にてご出家の間、故院猶此の事を以て、御不請」の記事から、

 式子が八条院にいた某姫宮と女院鋤`子を呪詛したという噂を立てられ、同宿できなくなって押小路殿に移り、そこで出家し、その時期は、父後白河院の生存中の建久3年3月以前と、式子の出家の真相と時期を導き出し、

 式子は出家に踏み切るのだが、彼女の法名は承如法(シャウニヨハウ)『賀茂斎院記』と言い、出家の戒師は藤原兼実など上級貴族にも帰依するものの多かった専修念仏の法然であったというが確かではない。しかし、今日残っている法然の「シャウ如ハウノ御事コソ」で始まる長文の手紙は、最近話題になったように、承如法すなわち式子に宛てた消息であった可能性が高い、と、出家の戒師を法然と推測されている。


と、すると、式子は46歳で出家したのである。


 さて、そこで、八条院にいた某姫宮とは、式子の弟でもある故以仁王の娘であり、その姫宮と八条院を式子が呪詛した噂を立てられて出家したという事だが、他方では、逆に以仁王の姫宮が式子を呪詛したという説も根強く残っており、これは八条院の膨大な所有地の相続権が絡んだ複雑な事情によるらしい。


 しかし、何といっても興味深いことは、「故院猶此の事を以て、御不請」と定家が記載した娘式子の出家に不賛成であった後白河院の気持ちで、これを推量すると、

 まず思い浮かぶのは、院の母待賢門院も、彼女に仕えていた夫婦が彼女の命で美福門院を呪詛したとの嫌疑をかけられて、美貌を惜しまれつつ42歳で無念の出家をさせられたことから、今度は娘が身に覚えの無い呪詛の噂で出家をすることに対する不興であり、

 さらには、賀茂斎院で准三后の身分を持つ娘が、弟で仁和寺六代御室の名を持つ守覚法親王を戒師とせずに、その頃密教と激しく対立していた専修念仏を唱える法然を戒師としたことに対する不興ではないかと思う。


 いずれにしても、後白河院の娘という高貴な女性が、当時、天皇家と関係の深い仁和寺、東寺、園城寺など大寺院の身分の高い僧を戒師としないで、むしろこれら大寺院と対立し、貧しい庶民に多くの信者を持つ専修念仏の法然を戒師としたことから、彼女の出家に何らかの物語があったと導き出されるのは当然かもしれない。