京都の夏の風物として欠かせない豪壮華麗な「祇園祭」は、京に流行った疫病の大流行をきっかけに、災厄の除去を祈る御霊信仰として、祇園の神を祭り神輿を掲げて御旅所を巡る祭礼の「祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)」として始まった。
下に掲げた絵は後白河院の命により作成された「年中行事絵巻」の祇園御霊会の様子で、引用した「日本の絵巻8 年中行事絵巻」(中央公論社)はこの絵について次のような解説を載せている。
『祇園御霊会は、天禄元年(970)、一説では貞観18年(876)に始まるといい、6月7日から14日(旧暦)まで行われ、疫病よけの御利益があるといわれる。この絵は6月14日の還幸の行列を描いたもので、御旅所から列見所に向かう光景を表している』
因みに「還幸」とは、天皇が行幸先から帰ること、または神が神幸(しんこう)先から帰ることを意味し、当時は天皇と神が一体のものとして考えられていたことを示している。
(祇園御霊会行列 先頭部分)
(祇園御霊会行列、向かって右が鉾、左へ二台の神輿と馬に乗った巫女)
別名「祇園会」とも称される「祇園御霊会」の費用は当初は国家が丸ごと負担していたが、保元の乱で国家財政が破綻した事により、後白河天皇が費用を調達するために、「金で潤っている賎民」、すなわち洛中の金持に山鉾を造る費用を拠出させて、彼らに名誉を買う機会を与えて喜ばせたエピソードは今でも「潤屋の賎民」として語り継がれ、後に祇園会が国家ではなく町衆の手によって運営される道筋をつくった。まあ、今で言えば『民営化』ですか。
また、このエピソードは、当時、既に「有徳」人とも呼ばれる富裕層が町衆の中に存在していたことも示している。
ところで、現在の祇園祭は八坂神社の祭礼となり、その八坂神社はサイトで、
『八坂神社はながらく「祇園社」「感神院」などと称しましたが、明治維新の神仏分離にともなって「八坂神社」と改称しました』と謳っている。