後白河院と頼もしき姉妹(2)異腹の妹・八条院(上)藤原定家の出世

 後白河院の異腹の妹・八条院翮子(あきこ)内親王は、美福門院を母として鳥羽天皇の第五皇女として生まれた。彼女は夭折した近衛天皇の後継女帝にとも考えられたほど鳥羽法皇から寵愛され、両親亡き後は二人が残した広大な荘園と近臣の大半を相続し、時の政権から一定の距離を置きながらも、摂関家・源氏・平氏の何れもが無視できない独自の存在感を発揮した。


 さて、八条院を身近に感じるために、新古今歌人として私たちに馴染み深い藤原定家との関りを、五味文彦著「藤原定家の時代〜中世文化の空間」(岩波新書)を参考に提示したい。


 藤原定家は応保2年(1162)に歌人藤原俊成と美福門院・八条院の女房として仕えた加賀局との間に生まれ、同母の兄・成家は八条院の年給により官位の昇進を果たし、定家よりも8年も早く従三位に叙せられている。


 定家が侍従として仕えた高倉上皇崩御し、さらに後白河院に仕えていた姉の京極局が亡くなったことから、長年抱いてきた「殿上人」への望み断たれるのだが、後白河院が清盛によって幽閉されていた鳥羽殿を出て八条殿で女院と同殿していた治承5年(1181)3月9日に、父の俊成と八条殿に初参した事から、父子は八条院を通じて後白河院に仕えることになる。


 父の俊成が後白河院から「勅撰和歌集」の編者を命じられるのはその2年後になるが、定家も践祚したばかりの後鳥羽天皇に出仕する道が開かれて念願の「内裏の殿上」が叶ったばかりか、後白河院八条院の近臣で裕福な貴族の藤原季能の娘との結婚も果たし、ここから長い間うだつの上がらない官位に甘んじていた定家の出世の道が開けてゆく。