後白河院と頼もしき姉妹(1)美貌の姉・上西門院〜源頼朝との太いパ

 後白河院と母を同じくする上西門院門・統子(むねこ)内親王鳥羽天皇第二皇女で母は待賢門院翮子。初名は恂子で後に統子と改名した。

 彼女の母親譲りの美貌については、当時の皇宮の宮太夫(こうぐうのみやのだいぶ)源師時が女房に召されて参上し、皇女恂子内親王にまみえて「端正美麗、目の及ぶ所に非ず」と詠嘆したと伝えられており(『日本の歴史・武士の登場』竹内理三著 中公文庫)、西行も憧れた待賢門院の娘ともなればなるほどと思われる。

  

下は上西門院・後白河院の母、待賢門院の画像(『椒庭秘抄』角田文衛著より)


 

 ところで、皇位を諦め今様にのめり込んでいた雅仁親王後白河院)を中継天皇として担ぎ出したのは義母・美福門院門院であったことは既に述べたが、(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20090223
 
 その強烈な美福門院の影響を避けるために、後白河天皇は姉の統子(むねこ)内親王を自分の准母・皇后宮に立て、さらに「上西門院」と女院宣下をする。


 「後白河院」((財)古代学協会編)の「後白河院清和源氏」によると、
 

 源頼朝は保元3年(1158)統子内親王が皇后宮として立后した際には皇后宮権少進に任じ、翌年に女院号をうけて上西門院となった時は女院庁の蔵人に補されている。

 これは、頼朝の母の兄弟に当る熱田大宮司家の藤原範忠・範雅が後白河院の北面であり、母の姉妹にも待賢門院や上西門院の女房がいた事などが関係しており、この事からも、平治の乱で処刑されるはずの頼朝の助命を嘆願した池禅尼の背後に上西門院の強い意向が働いていたとされるのも頷ける事である。

 さらに、源頼朝に平家打倒の挙兵を強く説得した文覚上人も上西門院の北面に仕えていた事から、頼朝に挙兵を踏み切らせたのは一般に伝えられている以仁王の令旨よりも、後白河院とその近臣の意を受けた文覚上人の勧告であったとの観方もあり、治承のクーデターで京から離れた鳥羽に幽閉されて平家の厳しい監視下にあった後白河院と、平家打倒を目論む文覚上人やその弟子との連絡は上西門院の庇護の下でなされていたようだ。


こうしてみると、王朝史上最も最も困難な状況に対処せざるを得なかった後白河院にとって、姉・上西門院は正に心強い援軍であったといえる。