後白河院と寺社勢力(6)神輿の呪い?関白師通の悶死

  大津・坂本に広大な社域を有する日吉大社山王権現とも呼ばれ、平安時代からは比叡山延暦寺(山門)の鎮護神とされていた。


 鎌倉時代山王権現の霊験譚を記したとされる「山王霊験記」には、叡山の山僧や日吉社の神人が日吉山王社の神輿に呪詛した祟りにより、関白師通が七転八倒の苦しみの果てに38歳の生涯を終えるというショッキングな話が載っている。


 「山王霊験記」の解説によると、嘉保2年(1095)、美濃守源良綱が延暦寺の僧円心律師と争って僧を殺し、延暦寺側は時の関白にこの事を訴えたが聞き容れられなかったばか使者の神人まで殺害され、これに憤った叡山の大衆が日吉山王社の神輿を山頂の根本中堂にかき上げて師通を呪詛した。


 その呪詛の効き目は容貌端正な師通の顔面の大きな腫物となって顕れ、その腫物は次第に大きく腫れ上がり、その堪え難い痛みに師通はのたうち回る。


 見かねた母の北政所(師実の妻)が日吉社を始めとする諸国の神社へ祈誓したがそれも空しく、あらゆる加持祈祷や名医、良薬の手を尽くしたがその甲斐も無く、師通は関白在位わずか6年で才能稀有な人材と惜しまれながら38歳の生涯を閉じた。


 嘉保の嗷訴と呼ばれるこの事件を他の資料から少し補足すると、源良綱の僧円心殺害の罪状を訴えて、延暦寺の使者として神輿を担いで押しかけた日吉社の神人を前に、神輿めがけて放った関白師通配下の矢が神人に命中して、憤った叡山大衆の呪詛に至ったということになる。


 

(関白の命により延暦寺の使者日吉社の神人を追い払う中務丞源頼治


(夜な夜な病苦と幻影・幻聴に悩まされる関白藤原師通

上図はいずれも「山王霊験記」(続日本の絵巻23 中央公論社)より。


 この山僧嗷訴の画期的なことは、神の乗り物である神輿、祭の式日に定まった御旅所に向かう以外は決して動かないはずの神が、輿に乗って朝廷に迫ったことであり、いわゆる「神輿動座」として始めての事であった。


げに恐ろしきは、神輿に呪詛する叡山僧の執念かな。