後白河院と寺社勢力(8)国守(1)下級官僚は国守を目指す

 日本は大宝元年(701)に唐・新羅に倣って律令制を導入したのだが、それは、正一位上から少初位下に至る30階級からなり、その位は、宮廷において天皇に一番近い場所に座る人を一位と定めたものであるが、更にその下にも無位の階層が続き当時8300人とされる官僚を貼り付けた。


 また、一位から五位までの叙位は天皇の任命による勅授によって授けられ、任命された者の氏名と叙位年月は正史に明記されることから、五位と六位の間には大きな差があることになるのだが、もっとも、国家の重要事項は、摂政・関白・太政・左・右・内大臣と、大・中納言、そして参議の三位以上からなる「公卿」によって決定され、昇殿を許されていた彼らは「殿上人」とも称されて、今で言うキャリア官僚は「公卿」であった。


   

 律令時代とは、例えば、春に官稲を農民に貸付け秋に3〜5割の利稲と共に回収する出挙(すいこ)に見られるように、農業といえども国が利稲収入を目的とする貸金業を営んでいたように、農業・建築・土木を含めた一切の事業は全て国家経営で行われ、地方政治も首長である国守も国家が任命していたから、立身出世の方法は行政職としての長い長い官僚ピラミッドを一段一段登るしかなかったのである。


 さらには、例えば一位の父を持つ嫡子は21歳になると自動的に従五位下に叙されるような、五位以上の父・祖父をもつ貴族の子孫は「蔭位(おんい)」とい特権制度(下図参照)に守られていたから、高位の家に高位の身分が集中するこの仕組みが格差の拡大と固定を促進させて藤原一族のような権門を生んでゆくのであった。


  

 そうなると、五位以下の下級貴族にとって「公卿」などは益々手の届かない存在になるばかりか、やっと五位に到達しても彼らが就任可能なポストは中央・国守と合わせておよそ150位しかなく、それを巡って250人が熾烈なポスト争いを展開していたとされる。


 このような常時40%のポストレスの五位としては、地方長官である「国守」を目指すしかないのであるが、しかし、任国66ヶ所、満期5年の国守の定員は66人、毎年の空ポストは多くて精々二桁、そんな苛烈な就活レースはどのようなものであったか、次回に私たちに馴染みの深い清少納言の父と紫式部の父を参考に当時の下級官僚の悲哀を偲んでみたい。


※ 以上は(「王朝貴族物語」山口博著 講談社現代新書)を参考にしました。