後白河院の娘(1)殷富門院亮子内親王〜動乱期の文芸興隆のパトロン

 後白河院の第一皇女亮子(りょうし)内親王以仁王式子内親王の同母の姉に当り、卜定された伊勢斎宮を同母の好子内親王に交替した後は、安徳天皇の准母及び後鳥羽天皇の国母として皇后に叙せられ、皇后を辞した文治3年(1187)に女院号を賜り殷富門院(いんぷもんいん)と称した。


 院政時代には天皇の母となった皇太后だけではなく、少なからぬ未婚の皇女が女院号を宣下され、父母から相続した莫大な荘園領主として政治的な存在感を高め、その権威を恃みに仕えた少なからぬ近臣が位階昇進を果たしているが、さて、その院号はどのように決められるのか、「女と子どもの王朝史」服藤早苗編(森話社)から探ってみた。


      

 それによると、鳥羽院後白河院など男性の院号は主として御座所かあるいは生前に本人の希望した名前が死後につけられるが、女院号は生存中に本人の与り知らぬ所で重鎮たちが協議して決めた名前を称するしきたりで、殷富門院の時には他に宣陽門院・宜秋門院・東二条院などの候補が挙がったが、九条兼実の推した「殷富門院」が採用されたと、兼実の日記「玉葉」を引用している。また、兼実が反対した宜秋門院は廻りまわって自分の娘で後鳥羽天皇の皇后・任子につけられたとも。


さて、殷富門院亮子内親王とは如何なる女性か。

 彼女は諸国の源氏に「平家追悼令旨」を発した以仁王や、藤原俊成が編纂した「千載和歌集」に少なからぬ歌が採用された弟の守覚法親王や妹の式子内親王と比べて歴史・文学史上に登場することは少ないが、歌人として藤原定家に大きな影響を与えた大輔(たいふ)や定家の姉の健御前や京極局などを女房として擁した彼女の御所は、才能溢れる女房と若い殿上人たちの活発な交歓の場となり、動乱に明け暮れて沈みがちな文芸の興隆に大きく寄与したと、「藤原定家の時代」五味文彦著(岩波新書)は指摘している。