54 後白河院と寺社勢力(余話)サルコジ大統領と藤原道長

  先の総選挙では議員の世襲が議論を巻き起こしたが、その余韻も覚めやらぬ二ヶ月ほど前に、サルコジ大統領が息子をデファンス地区開発公社(EPAD)のトップに就任させる意向を示したことに、余りの身びいきに批判が集中しているとの新聞記事を眼にした。私としては、 息子のジャン・サルコジ氏が23歳のソルボンヌ大学2年生である事に先ず驚いたが、既にオー・ド・セーヌ県の県会議員を務めていることに更に驚いた。


 報道によると、サルコジ大統領と最初の妻との間に生まれた次男のジャン氏は、2008年に父の地盤であったオー・ド・セーヌ県議会議員に当選したが、その裏に父の後押しがあったことを強く否定しているとか。まあ、ハリウッドのスターもひれ伏すかと思われる彼の美貌を考慮すると、当選するのもむべなるかな、かと、面食いの私などは納得してしまうが。

 
 この顛末は大統領の支持率低下を憂慮した息子のジャン・サルコジ氏がEPADのトップ選出選挙に立候補しない考えをテレビ番組で表明して落着した。


 ところで、話はいきなり1千年前の長保5年(1003)に遡るが、藤原道長の嫡男・頼通は12歳(数え年)で元服すると同時に一挙に正五位下の位を授けられ、その後は15歳で従二位、18歳では参議をすっ飛ばして一躍権中納言に納まった。父・道長も出世は際立って早かったが、それでも権中納言に昇ったのは23歳の時である。


 娘の彰子と一条天皇の間に生まれた後一条天皇後朱雀天皇と二代の天皇の外祖父として絶大な権力を手中に収めた藤原道長は、後一条天皇の即位に併せて、若輩過ぎる26歳の頼通を摂政内大臣に据えて、一族の繁栄を見据えて磐石の態勢を敷いてゆく。


 こうしてみると、洋の東西、時代を問わず、身贔屓や格差は人間の本質に根ざしたもののようで、だからこそ、それを律する明確なルールや仕組みが必要なのかもしれない、などと、私はしたり顔でおもったりする。


 話を再び1千年前に戻すと、「紫式部日記」では賀茂神社の臨時祭で帝の名代として御幣を捧げ宣命を読む使い(賀茂臨時祭奉幣使)に頼通の弟の教通が選ばれた事が述べられているが、欄外の説明によると、その時の教通は従四位上右近衛権中将で何と13歳であった。なんとも家柄の凄さよ。


下図は(「紫式部日記絵巻」から賀茂臨時祭奉幣使に選ばれた教通を描いたと思われる場面)


(「院政期の絵画展」カタログより)