後白河院と寺社勢力(10)国守(3)源氏物語に見る貴族の凋落

 朧月夜尚侍と通じた為に弘徽殿大后によって都を追われ地方でわび住いを余儀なくされた光源氏の無聊を慰め、何くれとなく経済的な支援をする明石の入道。


 播磨守を最後に出家して明石の地に風雅な邸宅を構えて、管弦を愉しみ、念仏三昧に暮らす「前国守」は端から見れば羨ましい限りであるが、その彼の唯一の悩みは、手塩にかけた美しい娘の行く末であり、かくて、明石入道は涙ながらに光源氏を掻き口説く。


「娘が幼少の時から思う仔細があって毎年の春秋に必ず住吉のお社に参っております。私自身の極楽往生はそれとして、ただ娘については高い望みをおかなえくださいとお祈りしております。

 前世の因縁に恵まれなかったために、私はこうした下賤の身となったのでしよう。親は大臣の位を賜りながら、私はこのような田舎の民となり、子孫が次々にこのように落ちぶれるようでは末はどんな身の上になりますことかと悲しく思われます。

 娘をゆくゆくは都のやんごとなき貴人に縁付けたいと思うばかりに、あまたの縁談を断って周囲の嫉みをかい、辛い目にあうこともたくさんございますが、私の生きている限りは父親として娘を大事に育ててゆくつもりです。しかし、この状態で私が先立つことになれば、海に身投げてでも死ぬようにと娘に申し付けております」と。


 謹慎の身である源氏は娘との対面をしきりに促す入道の誘いを避けてきたのだが、つい、情にほだされ娘の邸に足を踏み入れ、優雅な美しさだけでなく控えめな人柄に強くひきつけられる。そして、政変により都に呼び戻された源氏は権大納言に昇進して政権の中枢を担い、入道の娘である明石上を都に呼び寄せ、二人の間に生まれた明石の姫君は紫の上に育てられて、やがて東宮(皇太子)の中宮となり、ここに明石入道の本意は完璧に遂げられることになる。


 ここで、興味深いのは、大臣の子として播磨守という一等国の国守のポストを得たものの、遂に都の中枢に戻れなかった明石入道の凋落である。親が大臣ということは、親の位階は少なくとも二位以上であったと思われ、蔭位制度によればその子息は21歳で自動的に正六位下従六位上に叙位され、出世競争において有利な地点に立っていたはずである。

http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20091120
 

 この場面から透けて見えることは、紫式部が「源氏物語」を書いた頃は、彼女の雇用主でありかつパトロンである藤原道長が、三代の天皇の后を全て自分の娘で独占し、その圧倒的な権勢を背景に行政官僚ポストを道長に連なる一族だけで囲い込み、他の高級貴族は中枢ポストから排除されていたということであろう。


そして、三代の天皇の后を自分の娘で独占するという奇々怪々さを分解すると、

 先ず、一条天皇中宮に既に天皇が寵愛していた中宮定子を排除する形で長女の彰子を入内させ、次の三条天皇には次女を入内させるが自分と折合いが悪いために退位に追い込み、一条天皇と彰子との間に生まれた外孫の後一条天皇を即位させてその中宮に三女をたて、つまり、天皇には自分の妻を選ぶ自由が与えられていなかった事になる。

 それでは他の公卿は娘を入内させないのかといえば、彼らは道長と対立することを恐れて娘の入内を控えるか、仮に入内させても道長の影響力を行使した執拗な妨害にあうという事で、これでは天皇としても、道長の娘以外の后を持てないと言う事になる。


 紫式部は国守であった父藤原為時と共に赴いた任国で、高級貴族の凋落した姿に接した体験から「明石入道」の人物像を産み出したのであろうか。そういえば、「紫式部日記」からは、清少納言のように宮廷生活の賛美一辺倒ではなく、時には物憂げに、時にはクールに周囲を観察する作者の醒めた眼を感じる事がある。


以下の画像は全て「別冊太陽SUMMER’73 源氏物語絵巻五十四帖」より。


  

明石上の邸に向かう源氏の一行(源氏物語色紙絵)


  

「澪標」住吉詣で明石上の舟とすれ違う源氏の車と源氏に硯を渡す随身源氏物語色紙絵)


「澪標」住吉詣で明石上とすれ違った源氏の車と従者(貝合せ)