2009-01-01から1年間の記事一覧

後白河院と平家の女(余話)中宮の出産と「物の怪」

私は「源氏物語」のヒロインの中では六条御息所が一番好きなのだが、その彼女は嫉妬に狂った生霊と化して光源氏の正妻・葵の上を夕霧を出産した直後に呪い殺す。 その「源氏物語」の作者が書いた「紫式部日記」は、彼女が仕える藤原道長の娘で一条天皇の中宮…

後白河院と平家の女(3)建礼門院(下)妹達〜政略結婚の果て!

16歳の建礼門院(平徳子)が12歳の高倉天皇へ女御として入内したのは、天皇の外祖父の地位を狙う清盛の意を受けた清盛の妻・時子と時子の義妹・建春門院(平滋子)との画策によるものであった。 本来であれば女御として入内できるのは摂関家や大臣の姫君…

後白河院と平家の女(3)建礼門院(中の2)弔ってこそ成仏する亡魂

「平家物語」は平家滅亡後出家して大原に詫び住いする建礼門院を後白河院がお忍びで訪れる『灌頂巻』で物語を終える。その「大原御幸」で建礼門院が母・二位尼の後を追って入水しようとしたありさまを、「二位尼が『女人をば昔より殺すことなし。構えて残り…

後白河院と平家の女(3)建礼門院(中の1)壇ノ浦で死ぬべきだった

私が「百二十句本」(平仮名本)を定本とした「平家物語」(新潮古典集成)を購入して読んだのは40歳になったばかりの頃であった。その巻第十一・第百五句「早鞆」では幼帝・安徳を抱き抱えて壇ノ浦の海に飛び込んだ母・二位の尼を追って建礼門院が入水す…

後白河院と平家の女(3)建礼門院(上)皇子出産を巡る動乱

思えば治承元年(1177)6月の未遂に終わった鹿ケ谷の謀略から、治承3年11月に清盛が数千騎を率いて入洛し後白河院を鳥羽に幽閉して院政を停止した治承のクーデターに至る動乱は、偏に高倉天皇の中宮で清盛の次女の徳子が皇子を出産するか否かを巡る…

後白河院と平家の女(2)丹後局(下の2)「若狭局・丹後局母子」検

前出「後白河院〜動乱期の天皇」において、古代学研究所の西井芳子氏は、後白河院最愛の女性・建春門院の乳母として女院の傍近く仕えた若狭局は、平清盛の祖父・正盛の娘で名前は平政子であり、女院亡き後は遺児・高倉天皇の女房として仕え、九条兼実に高倉…

後白河院と平家の女(2)丹後局(下の1)生母が若狭局なら平清盛は

これほどの存在感を持つ丹後局については後白河院の寵臣で今様の弟子でもあった平業房の美貌の妻という以外は余り知られていない。精々、九条兼実の日記「玉葉」に「法皇無双の寵女丹後、卑賤者也」との記述が見られるくらいで、これは、後白河院から所望さ…

後白河院と平家の女(2)丹後局(中の3)頼朝を翻弄し兼実を失脚さ

武家政権では棟梁となった源頼朝も、中央政治では彼が「日本国第一の大天狗」と評する後白河院の前に歯が立たず、同盟者九条兼実と共に「何事も法皇御万歳後」と院の死を待つ他なかったが、そんな二人にとって、66歳の大往生とは言え建久3年(1192)…

後白河院と平家の女(2)丹後局(中の2)摂関家を分立させる

壇ノ浦における平家の滅亡により、朝廷への発言力を増した源頼朝の推挙を得て、これまで一貫して親鎌倉の姿勢を貫いた藤原(九条)兼実は、藤原(近衛)基通に代わって文治2年(1186)3月に念願の摂政・藤原氏の長者となる。 ところがこれを不服とする…

後白河院と平家の女(2)丹後局(中の1)後鳥羽天皇践祚に介入

寿永二年(1183)平家は三種の神器と共に安徳天皇を具して西走した。平宗盛から同行を仄めかされていた後白河院は夜陰に乗じて辛くも延暦寺に逃げ切ったが、朝廷での天皇不在を苦慮して重鎮を招致して対応を協議した。 その結果、故高倉上皇の三宮・守貞…

後白河院と平家の女(2)丹後局((上)晩年の寵姫は5人の子持ち後家

安元元年(1176)年の平家出身の皇妃・建春門院の崩御は、これまで封じられてきた平家打倒の動きを一気に加速させる事になるが、その先鞭をつけたのは他ならぬ反平家の空気を読み取った後白河院であった。自ら謀議に加わった鹿ケ谷事件は密告によって未…

後白河院と平家の女(1)建春門院〜院の最愛の女性にして平家栄達の

後白河院の最愛の女性とされる建春門院について後室文化に造詣の深い故角田文衛氏(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20080516)は、「35年の短い生涯であったが、歴代のあらゆる后妃のうちで、これほど幸運に恵まれた方はいなかったと思う」と述べている(『…

後白河院と美福門院(その2)仏と仏が決めた天皇の退位

保元の乱は、後白河天皇の兄である崇徳上皇の配流、平家方は平清盛の手による叔父忠正とその息子3人の斬首、源氏方は源義朝が父為義と弟達を処刑するという残忍な結果で京中の人々を震撼させたのであるが、このこと自体が、実に3百年ぶりの死刑の復活に敢…

後白河院と美福門院〜保元の乱『舞台の主役と影の主役』

美福門院腹の近衛天皇の即位で皇位が遠のいたことを悟り、今様に寝食を忘れて打ち込んでいた雅仁親王を天皇の座に引き摺り出したのは他ならぬその美福門院であった。美福門院の名は藤原得子(ふじわらなりこ)。父は伊予や播磨などの富裕な受領や太宰の大弐…

後白河院と遊女(番外編)私の今様10選 博打打ちの母 など

後白河院と遊女のシリーズを終えるに当って、「梁塵秘抄」から今様を10首選んでみました(数字は通し番号)。365 わが子は二十(はたち)になりぬらん 博打(ばくち)してこそ歩(あり)くなれ 国々の博党(ばくたう)に、さすがに子なれば憎かなし 負…

後白河院と遊女(6)師の乙前にささげる深い哀悼

乙前を今様の師に迎えて11年を経た後白河院は、上皇として二条・六条天皇に次ぐ皇位を平家出身の最愛の女性建春門院との間に生まれた高倉天皇を即位させ、政敵平清盛とは緊張感を孕みながらも表面上は穏やかに治天の君としての権力基盤を固める傍ら、自ら…

後白河院と遊女(5)法住寺殿今様会〜正調今様伝承、小大進、な

当時の今様は女芸人四三の流れが正調とされ、後白河院の師、乙前も四三の直属の弟子目井から手ほどきを受けたことは前回に述べた。 (Mixi http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1074034685&owner_id=87871 隠居Journal http://d.hatena.ne.jp/K-sako/) 乙前の…

後白河院と遊女(4)愛人かパトロンか、西行の祖父源清経の壮絶な葛

何時の世もやっかみはあるもので、一度は後白河院の前で今様を披露した乙前と同じ美濃の青墓出身の遊女さはのあこ丸(梁塵秘抄を元に私が作った別紙参照)が、後白河院に召抱えられた乙前を妬んでか、「乙前ねえさんはすごく上手だけど、目井の弟子といって…

後白河院と遊女(3)今上天皇と73歳の女芸人の師弟の契り

近衛天皇の崩御から、自らの天皇即位が兄弟・親子が血で血を洗う内乱(保元の乱)を引き起こした経緯を、「そののち、鳥羽院かくれさせたまいて、物騒がしき事ありて、あさましき事いでて、今様沙汰も無かりしに」と、淡々と記述した後白河院が、今様の名手…

後白河院と遊女(2)殿上と遊芸の近接

20歳で母の待賢門院を失った悲痛な心境を、 「久安元年8月22日、待賢門院亡せさせたまひにしかば、火をうち消ちて闇の夜に対ひたる心地して、昏れ塞がりてありしほどに、50日過ぎしほどに」と記した雅仁親王は、兄の崇徳上皇から、同居せよ、との仰せ…

後白河院と遊女(あそびめ)(1)絵で見る遊女

「歌は、風俗。中にも、杉立てる門(かど)。神楽歌(かぐらうた)もをかし。今様歌(いまよううた)は長うてくせづいたり」と清少納言の「枕草子(280段)」や、 「琴笛の音などにはたどたどしき若人たちの、とねあらそひ、今様歌どもも、所につけてはを…

後白河院と待賢門院〜なぜ、和歌ではなく今様か(2)親王のライフ

「瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思う」は落語の崇徳院でお馴染だが、後白河院の兄の崇徳上皇は歌人としても優れていた。また、息子の高倉天皇も仕えた歌人の藤原定家の手ほどきもあってか、幾つかの歌を残しているが、後白河院が和歌…

神保町漂游

「後白河院」についてあれこれ書きまくるという、年来の課題にやっと踏み出したばかりだが、頭の中が煮詰まってきた事もあって、昨日、久しぶりに神保町に足を向けた。 消費者の引篭りで物がさっぱり売れないと小売業者を嘆かせる不況のこのご時世、さぞかし…

後白河院と待賢門院〜なぜ、和歌ではなく今様か(1)待賢門院の場

「椒庭秘抄〜待賢門院鋤`子の生涯」で著者の角田文衛氏は、女院庁の別当(長官)や近臣、そして歌集に数々の作品が取り上げられ程の才能を持ち西行とも歌を交わしした堀河や兵衛を始めとする女房など、女院御所には錚々たる歌人が揃っていたにも拘らず、彼女…

後白河院と待賢門院〜今様上手「神崎のかね」を貸し借りする母と子(

当初、雅仁親王(後白河院)は母の御所に出入りする貴族や遊女達から見よう見まねで今様を習っていたが、腹違いの近衛天皇の即位を機に一段と今様に打ち込むようになったと言われている。そんな中で、母・待賢門院に、今様上手の神崎の遊女(※1)かねが仕え…

後白河院と待賢門院〜今様上手「神崎のかね」を貸し借りする母と子(

後世に「権謀策術に長けた日本のマキャベリ」と悪し様に言われる後白河院であるが、女たちとの交流においては、全く別の素顔が浮かび上がってくる。そこで、後白河院と幾人かの女達とのつきあいを取り上げてみたい。先ずは生母であり、院の今様狂いの土台を…

芭蕉が後期高齢者活躍の手本なら後白河法皇は一体!!

後白河法皇に深い関心を抱き始めて院政期に関する書籍をあれこれ読み漁っているが、びっくりするくらい長生きした人たちがあちこちに記録されている。代表的なところでは、歌人の藤原俊成・定家親子であろう。堀田善衛著「定家明月記私抄」によると、藤原定…