後白河院の娘(2)式子内親王(5)恋ひ恋ひて〜面影人は定家か

・ かきやりてその黒髪のすぢごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ

 何ともぞくぞくするほど官能的な歌ではないか。藤原定家は恋歌の名手である。これほど洗練された感性の持ち主が今なお広く膾炙される式子内親王の忍ぶ恋の相手であっても少しもおかしくはない。


 現に今日の私たちが知る式子内親王の消息の大半は定家の「明月記」によるところが多い。確かに彼は式子の家司であったから頻繁に彼女の屋敷に出入りし、彼女の消息を詳しく知る立場にあったであろうが、それでも彼女の決して幸せとはいえない立場に並々ならぬ惻隠の情を示し、また重篤に陥った彼女の病状に一喜一憂する様は、単なる主人への気遣いだけからとはとても思えない。


 ところで藤原定家が三条萱御所の式子内親王の邸に初参上したのは治承5年(1181年)1月3日で、時に式子は33歳、定家は20歳であり、定家は場面を「三条前斎院に参ズ(今日初参。仰セニ依ルナリ。薫物馨香芬馥タリ)」と明月記に記していると、堀田善衛著「定家明月記私抄」は述べているが、わざわざ、(今日初参。仰セニ依ルナリ。薫物馨香芬馥タリ)と特記しているところをみると、よほど印象が強かったに違いない。


 


 そして、堀田善衛氏は「御簾があったかどうかは彼が書いていないのでわからないにしても、とにかく大変な香りを漂わせてこの皇女は定家を引見しているのであり、定家の二人の姉が式子に出仕していて彼の噂を既に耳にしていることであるから、この辺りから定家・式子内親王伝説が出発し、謡曲『定家』をはじめとしてスキャンダル風に扱われたのではないか」と、述べている。

 そういう中で、式子内親王の思い人は法然であったと興味深い説を提唱する石丸晶子氏は、その著書「式子内親王伝〜面影びとは法然」で、式子の歌の主調である「忍ぶ恋」の相手は定家ではなかったと以下のように指摘されている。


  


 定家は式子が亡くなるまで20年近く内親王家の家司として仕えて彼女の屋敷に頻繁に出入りしたが、定家の父・俊成が式子の和歌の師であり、また姉の斎院女別当と竜寿の二人が早くから式子の女房として仕えていたこともあって、彼は式子にとってライバル歌人であると共に、親しくて頼りになる家司の一人に過ぎなかった。


 さらには、定家は式子の他に、八条院とその猶子・一品昇子内親王後鳥羽院皇女で母は九条兼実の娘任子)、九条兼実、兼実の二男・良経にも仕えて彼らの屋敷に日夜出入りし、そうした彼の仕事は、主人の外出や寺社参りのお供、車の手配、御格子の上げ下げ、時にはメッセンジャーボーイも勤める下僕と変らない下級貴族であり、そこから浮き彫りになる定家の風貌は、日焼けして身の締まった健脚で脛が発達した男で、咳病が持病であったにも拘らず、長生き(80歳)できたのはそういう動き回る仕事だったからで、私生活においても、彼は妻も一人ではなく子沢山で(生涯に27人)、子どもの風邪で右往左往する家庭的な男であり、

 そんな男が、身分違いの誇り高い式子内親王の恋の対象とは考えられないと、まことに現実的な視点から「面影人は定家」論を退けている。


 次に歌人としての式子と定家の繋がりを眺めことにして、歌人の馬場あき子氏の「式子内親王」に目を通すと、



 著者は、謡曲の「定家蔓」などに見られる根強い式子と定家の恋物語の背景には、定家の「明月記」に余りにも式子の記述が多く、特に式子の病状に一喜一憂する様子が主人を思いやる従者の立場を超えていると見られる事、さらに2人とも恋の歌に練達し、日頃歌のライバルとして親しくしていたこともあってか、二人の恋の歌には内容的に呼応するものが目立ったからではないかと述べ、次のような代表歌を挙げておられる。


                     <前小斎院御百首> 式子
・ 恋ひ恋ひて よし見よ世にもあるべしと 云ひしにあらず人も聞くらむ
・ 恋ひ恋ひて そなたに靡く煙あらば 云ひし契の果てと詠(なが)めよ
                       <拾遺愚草> 定家
   かげばかりみてかへりける道にて火のあるよし人のいふに                       
・ 恋ひ恋ひて あふともなしに燃えまさる 胸のけぶりや空にみゆらん



                     <正治二年百首> 式子                   
・ ながめつる 今日は昔になりぬとも 軒端の梅よ我を忘るな
                       <拾遺愚草> 定家                    
   春物ごしにあひたる人の梅の花を折らせていりにける又の年、おなじ所にて
・ 心から あくがれそめし花の香に なほもの思うはるのあけぼの

・ 我のみや のちもしのばぬ梅の花 にほふ軒端の春の夜の月


                      
                   <文治二年 二見浦百首> 定家                  
・ かりにゆふ 庵も雪にうづもれて 尋ねぞわぶるもずのくさぐさ                  
                         <続古今集> 式子
・ たづぬれば そこともいはずなりにけり 頼めぬ野辺のもずのくさぐさ 
  


                        <正治二年百首> 式子                 
・ 跡もなき 庭の浅茅に結ぼほれ 露のそこなる松虫の声 
                        <内裏秋二十首> 定家
・ あるじから 思ひたえにしよもぎふに 昔もよほすまつ虫のこゑ



 歌を見る限りにおいても、藤原定家にとって式子内親王は単なる主人ではなく、強く意識されるあこがれの年上の女性ではなかったかと私には思えるのだが。